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ランドセル かくみつ
 どもというのはどのくらい大人おとななんだろう。なんにもわかってなさそうなかおをしているが、しかし、いろんなことをわかっているものだ。
 ともあれ、わたしはちゃんとわかっていた。ようえんのとき、わたしほんとうなんにもできないどもで、めなけりゃはさみも使つかえない。なにはなしかけられてもすぐにこたえられないし、どこかがいたくてもいたいともえない。おしっこというひとことえなくて、けっまんできずにいつもおもらし。ろうすみで、ようのパンツにえさせてもらう。ぬれたパンツはビニールぶくろれられて、ってかえるようわたされる。
 ほかのができることをぶんはなぜかできない、ということをわたしはわかっていた。はなしかけてもだまっているから、はなしかけたこまっているのが、もうはなしかけてくれないのが、わかっていた。ちょっとこまっただと、せんせいおもっていることをわかっていた。ようパンツはほとんどぶんせんようだということもわかっていたし、ビニールぶくろめられたぬれパンツのなさけなさもわかっていた。
 ぜんわかっているから、わたしぜつぼうした。ようえんぜつぼうなんてたいしたことないとおもうかもしれないが、かいせまいぶん、ぜつぼういろいはうんといのだ。だってそこしかいるところがないんだから。
 わたしって、きっとずっとこんなかんじなんだろうなあ、と、大人おとなへんかんすればそんなようなことを、わたしばくぜんおもっていた。だれともうまくはなせなくて、だからともだちもできなくて、みんなのできることはずっとできないで、なんだかかっこうわるくて、せんせいおやこまらせて、たのしいとおもうようなことがあんまりない。そういうしょで、こういうあいわたしはずっときていくんだろうなあ。いやだけど、ほかにどうしようもないもんなあ。ようえんわたし大人おとなをまだっていなかったので、ただぼんやりとおもくらい、きゅうくつぶんだけをいだいていた。
 ここをていったってかいはさほどわらんだろうとわかっていたから、そつえんしきも、れがましいぶんではなかった。いつもよりきれいなふくせられ、れつうしろについて、みんながうごけばおくれないように(でもおくれるが)うごき、いつもとはまるでちがいちにちを、なんとかやりすごした。
 まだくうつめたいはるはじめ、もはやようえんでもなく、まだしょうがくせいでもないわたしのもとに、いろんなものぞくぞくとやってきた。がくしゅうづくえあたらしいたいそうふくうんどうぐつ、おどうばこきょうしょ、ノート、ふでばこえんぴつ。そのすべてにははまえいたりけたりした。
 しょうがくせいというものは、なんとまあしょゆうぶつおおいんだろうとかんしんした。これぜんわたしものになるんだと、どもらばった、あたらしいそれぞれをわたしおもった。やっぱりれがましいぶんにはなれず、どちらかというとおもかった。
 よごれたらどうする。わすれたらどうする。なくしたらどうする。わたしはきっと、おそれることのぜんをやらかすだろう。よごして、わすれて、さいにはなくすだろう。わたしまえかれたさらっぴんのこれらは、みなひとつずつ、かいすきっこちて、えいえんもどってこないだろう。
 そんなあるおおきなはことどいた。きちんとほうそうされて、リボンがいていた。おばあちゃんからだ、とははおやった。
 もうれっこになっていたおもくるしいぶんで、わたしほうそうやぶいた。よごすかもしれない、わすれるかもしれない、なくすかもしれないしょゆうぶつが、またきっとてくるにちがいない。
 てきたのはランドセルだった。あかくつややかにひかっていた。やけにばかでかくえた。からだをうんとげれば、わたししんがすっぽりはいれそうだった。がねがあって、けると、かちゃりといいおとがした。ふたをべろりとげてなかをのぞいた。ベージュのくうどうがあった。かおむと、においがした。くさいというわけではないけれどとくべついいにおいでもない。なんだかなつかしいようなにおい。大人おとなえばかわにおいだが、いだことのないそれは、ようえんでもしょうがくせいでもないわたしにとって、らいにおいにおもえた。
 あしをルのってすわり、ひざにランドセルをせて、わたしはぼんやりと、なんにもはいっていないなかながつづけた。かくくうどう。それはあいわらずばかでかくえ、なんだってはいるようにえた。こんなものをってまいにちがっこうくのか。こんなにばかでかけりゃ、なくさなくてすむかもな。
 わたしはふとおもって、たいせつにしているぬいぐるみのルルをランドセルにんでみた。はいった。しかも、まだまだゆうがある。りのほんれてみた。ようえん使つかっていたいろえんぴつれてみた。だいどころはしっていって、まんいたすいとうってきてれてみた。なんだってはいった。いしころ。チョコレート。ひみつのアッコちゃんのコンパクト。スヌーピーのハンカチ。ドロップ。はいる、はいる。らいねんはもうねとははっていたみずたらないとぜつぼうがいやみずたまくつした
 「あらやあだ、いえようのかばんじゃないのよ、それは。」
 ランドセルにまわりのものぜんもうとしているわたしがついて、ははこえげてわらった。そんなことわかってる。しょうがっこうは、どんなところだからないけれど、いしころやルルをっていくようなところじゃないってことくらい、わかってる。でもね、でもおかあさん。なんだいじょうがしてきた。だってこのかばん、なんだってはいっちゃうんだもん。
 しょうがくこうぜつぼうてきしょだったら、そこでまたもやぶんぜつぼうしたら、わたしはこのランドセルにりのものぜんめて、それでそこからげていこう。ハンカチやすいとうあかいランドセルをろして、わたしはそうひらめいたのだった。どこか、ぜつぼうしないでいられるしょさがして、たった一人ひとりぜんざいさんって、げよう。そうだそうだ、そうしよう。もうだいじょう
 わたしぜんざいさんは、ルルでありハンカチでありすいとうであり、チョコでありキャラメルでありキャンディーであり、いしころでありぞくったしゃしんであり、さわるとガチョウがきんになるほんだった。それだけでびられるとわたしおもっていた。一人ひとりで、どこかで、大人おとなになるまできていけると。
 ぜんざいさんんだランドセルにふたをして(かちゃりとまたがねった)、りょううでかたバンドにれてい、がった。ったぜんざいさんはあまりにもおもく、わたしはよろよろとうしろによろけた。それをははがまたわらった。
 そのちちかえってくると、はははまたわたしにランドセルをわせて、ちちとともにわらった。カメラをけたりもした。ぶんわらわれているのにわたしはなぜかおこりもきもしないで、なんだかおんなじようにかいちになって、わざとよろよろしてみせて、それでいっしょわらった。おばあちゃんにでんをかけておれいうときも、わたしはずっとわらっていた。
 そのがつわたししょうがくせいになった。「ランドセルにわれてる。」とははわらわれながら、まいにちあかいランドセルをってしょうがっこうした。
 ひょっとしたらあかいランドセルは、もしくはみょうにおいのするかくくうどうは、わたしにとってとびらだったのかもしれない。なぜならわたしはかつてのようにぜつぼうしなくなったから。おはようとわれればおはようとかえせばいい。おかしいことがあったらこえしてわらえばいい。できないことがあったらだれかにたすけてとえばいい。それでももし、かいぜんとしてわたしけるなら、このくうどうぜんざいさんめてさっさとどこかへせばいい。
 ランドセルからつやがうしなわれ、あちこちにかすりきずができ、バンドにうでとおすのがきゅうくつかんじられるころには、わたしはごくつうの、どこにでもいるしょうがくせいになっていた。
 たんじょうパーティーにばれ、すうにんともだちみつきょうゆうし、みつつくり、せんせいおこられ、つうしん簿いっいちゆうする、ごくつうしょうがくせいぜんざいさんってげようというひっかくもすっかりわすれ、ただただ、いちにちいちにちをせわしなくごす。かつてかげのようにひっついていたぜつぼうということは、おやにばれないようにててしまったあかてんのテストようほどに、のないものになった。
 
 さて、大人おとなというのはどのくらいどもなんだろう。なんでもわかったようなかおをしているが、そのじつなんにもわかってなんかいないのだ。
 ここへきて、わたしなんにもわからなくなってしまった。ねんれいでいえばわたしじゅうななさいりっ大人おとなねんれいである。ようえんのときていたより、かいかくだんひろくなった。らなかったことをひとつずつっていった。
 たとえばひとぬということ。ランドセルをおくってくれたおばあちゃんは、わたしじゅうななさいのときにんだ。いまいるだれかがいなくなることがあるなんて、それまでらなかった。けれどおばあちゃんはいまやどこにもいない。
 たとえばぶんにはかなわないなにかがあるということ。わたしはアーティストになりたかった。ざんしんなイラストをえがくアーティストとして、はやばやかいデビューをたすつもりだった。けれどだいはいったそのとしに、そんなこと、かいがおもてうらぎゃくになったってだとおもった。げんざいわたしは、しゃいんにんちいさなデザインしょはたらいている。
 たとえばこうふくというものがいっしゅるいではないらしいこと。ランドセルをちいさなわたして、いっしょわらころげていたちちははは、ねんまえこんした。それぞれのこうふくらいのため、だそうだ。かれらのけつだんはんたいはしなかったけれど、ランドセルとわたししゃしんをばかみたいにりまくったあのよるこそが、こうふくというものだとしんじているわたしには、なんだかちょっとショックだった。
 たとえばコントロールのうこいというもの。それまで、こいってなんだかふんわりした、やわらかいかんしょくのものだとおもっていた。いくこいをしてさえ、そうおもっていた。けれどなかには、もっとらんぼうばんこいというものもある。あいらくのただならぬぞうふくに、ちょっとタンマとってもタンマできないし、イチヌケタとってもけられない。そんなえたいのれないものがたしかに、ある。
 そして、たとえばそんなこいでもうしなうことがある、ということ。
 ひとひとつ、らなかったことをたいとくしてきたわたしは、いまげんざい、そこのところをまなんでいるさいちゅうだ。
 どうにかなっちゃうんじゃないかとおもうくらいきなひとがいて、ぶんかんちとゆうのほとんどすべてをしょうしてきて、それでもそういうじょうを、ばっさりと、おもいもらぬときにてられるときがある。はやはなしが、わたしられたばかりなのだ。
 こういうしゅるいのつらさは、ほんと、らなかった。ごはんをべてもなんあじもしない。でんしゃわたしまえでドアをめてもなんともおもわない。きなドラマをていてもないようあたまはいってこない。かとおもうと、とおりかかったくすりからこえてきたどうにもばかばかしいりゅうこういっせつに、とうとつらくるいする。
 わたしみようをったゆうじんたちが、なんしょくしてくれる。ばかさわぎもしてくれる。かれらといっしょわたしわらい、うたい、ごはんをもりもりべ、さけをがばがばみ、わたしったおとこわるくちったりする。けれどそうすればするだけ、なんだかくらあなぼこにすとんとちたようなかんいなめなくなる。わらともだちかおこうぶつったさら、きらめくワイングラス、すべてがうすやみのずっとこうにある。しつれんが、こんなにこわいものだなんて、まったく。
 そうしてわたしは、じゅうななさいになりながら、なんにもわかっていないことにがつくのである。ひちぬことがどんなことなのか、こうふくかたちちがうことがどんなことなのか、こいなにわたしにもたらしたのか、しつれんなにわたしからうばっていったのか、まるでわからない。すごいな。かつてはあんなにわかっていたのに、わたしはどんどんわからなくなる。大人おとなになるってのは、こんなふうにわからなくなることなのか。
 と、そんなことをかんがええながら、くらあなぼこせいかつおくっていたところ、ははからたくはい便びんおくられてきた。おおきなだんボールがふたつ。
 さいこめかとおもってけたら、へんものばかりぞくぞくてきた。アルバムすうさつさくぶんちょうかいこうさくわたしようえんからこうこうまでに、つくったりいたりもらったりしたおもしなかずかずきりはこりのへそのまであった。
 なんのつもりなんだ、としょうしょういらちながらなかしていたら、がみはいっていた。さいこんすることになったとがみにはあった。あなたのおもしなじゃだからおくりつけたのではありません。あなたに、っておいてほしいとおもったの。さいこんしてもあなたにはいつでもかえってきてほしいけれど、あなたのじっはもうあなたがおもうようなしょではないかもしれない。かえりたいとおもっても、おもうようにかえしょつけられないかもしれない。だからこれはあなたがっていてください。かえりたいとおもうようなときに、いつでもそくかえれるように。と、がみにはあった。がみさいに、おかあさんはいまとてもしあわせです、といてもいないのにいてあった。
 そーんなことって、ほんとうは、じゃだからおくりつけたんだろう、それならそうとしょうじきえばいいのに、なんてねじくれたぶんおもいながら、ふたはこけると、ふるびたランドセルがてきた。わたしはそれをして、ルのすわってひざく。
 なんちいさいものだろう。かちゃりとがねはずしてふたをめくる。むかしんでいたまんほんまれている。それをすと、しょうしょうくろずんだベージュのくうどうあらわれる。はなんでみる。使つかふるしたかわにおいがした。そんな大人おとならなかったら、においだとわたしうだろうとおもった。
 わたしはふとおもし、からっぽのランドセルに、ぶんぜんざいさんはじめる。まずつうちょうにはんこ、しょうポーチにしたえ。われながらすいきょうだとおもったが、やっていると、ここさいきんずっとわたしおおっているみムードがすこれた。えひとそろいに、みさしのほんきなCD、MD、DVDにマグカップ。こうすいにタオル。けれど、ああ、なんてこと。ぜんざいさんどころか、いっぱくりょこうひつようものすらはいらないじゃないか。
 ろくさいのあのときは、なんがるだったのか。あれだけのもつで、てまでげられるとおもっていたんだから。だらしなくなかたランドセルをまえに、わたしわらいだす。わらいながら、ランドセルをひっくりかえして、たったいまんだなかぜんゆかにばらまいた。
 これじゃげられないよ。わたししずかななかひとごとう。うしなってばかりのようながするけれど、それでもわたしにしているものは、ランドセルにめないくらいたくさんなのだ。げるわけにはいかない。もうすこし、ここでなんとからなくては。
 ランドセルをひさしぶりにってみようとしたら、うでとおらなかった。それでひとしきり、またわらった。しずかなにちようである。


むしのいろいろ ざきかず
 ばんしゅうのあるしのあかるいだったが、ラジオがようがくをやりだすともなく、すみからいっぴきてきて、へきめんでおかしなきょどうはじめたことがある。
 いまねんはいっているわたしびょうも、いっしんいっ退たいというのが、どうやら、しんほうゆうせいらしく、はるはるあきあきと、としごとのかくが、どうもかんばしくない。たぬままにだいよわりというのかもしれないが、それはとにかく、いちにちたいはんよこになって、めずらしくもないはちじょうの、さんしょあめのしみあるてんじょうを、まじまじとながめているかんおおいこのごろである。
 もうさむいから、むしたぐいはえないが、はえどもはそのべいすぎてんじょういたにしがみついていて、あいだは、えんがわたたみりてあっちこっちしている。わたしかおなんかにもたかって、うるさい。
 はえのほかにてんじょうかべかけるのは、である。はいいろで、うすまだらのあるおおきなだ。ゆうあしると、しょうのひとこまの、せまほうからはみすほどのおおきなだ。それがなんでもこのはちじょうのどこかに、さんびきひそんでいるらしい。いちさんびきてきたことはないのだが、れたわたしには、あ、これはあいつだ、と、そのちがいがすぐわかる。
 へきめんでおかしなきょどうせたやつは、なかいちばんちいさいかとおもわれるいっぴきだった。レコードの、「チゴイネル・ワイゼン」――むかしわたくしっていたことのあるハイフェッツえんそうあかおおばんちがいなく、りだすとわたしにはすぐそれとわかったから、なにかんがえていたことをほうし、みみぜんとそのせんりつむかえるじゅんをした。
 やがて、ぼんやりほうっていたせんなかに、するするとなにかがてきたが、それがで、かべすみからするするといっしゃくほどてきたとおもうと、ちょっとまった。るともなくていると、そいつが、ながあしいっぽんいっぽんゆっくりとうごかして、いくらかはずみのついたかっこうへきめんあるまわはじめたのだ。おどり――とちょっとおもったが、おどるというほどはっきりしたどうではない、きょくわせてどうこうというのではなく、なにかこう、いらいらしたような、ギクシャクしたあしつきで、やみとそのへんあるまわるのだ。
 ――かれだしやがった、とわたしなかばあきれながら、おかしがった。いくぶんさもかんじた。うしいぬが、おんがく――にんげんおんがくにそそられることがあるとはいていたし、こといぬあいは、わたししんじっさいたこともあるのだが、となると、ちょっとそのままにはりかね、わたしうたがわしいつきをからはなさなかった。きょくわったらかれはどうするか、そいつをとすまいとちゅうつづけた。
 きょくわった。するとは、そつぜんといったようで、せいした。それから、きゅうに、れいおともないするするとしたすばしこいどうで、もとかべすみ姿すがたした。それはなにか、しまった、というような、すこしてれたような、こそこそすといったふうなようだった。――だった、とはっきりいうのもおかしいが、こっちのけたかんじは、たしかにそれにちがいなかった。
 るいちょうかくがあるのかないのかわたしらない。ファーブルの「こんちゅう」をんだことがあるが、こんなもんへのこたえがあったかなかったかもおぼえていない。おとたいして我々われわれちょうかくとはちがべつかたちかんかくそなえている、というようなことがあるのかないのか。つまりわたしにはなんもわからぬのだが、このじつぐうぜんごとかたづけるこんきょたぬわたしは、そのときちょっとみょうかんじをけた。これはだんがならないぞ、まずそんなかんじだった。
 このことにかんれんして、わたしは、ぐうぜんをあるかんめたことのあるのをおもす。
 なつころあついうちはいくらかげんなのがれいわたしが、なにかのことでびんって、てきとうおもわれるのをぽんし、なにげなくセンをると、なかからいっぴきはして、ものかげえた。あしからあしまでいっすんいっすんの、はちじょうかべにいるやつとはかくにならぬがたのだったが、いろにくいろで、からだはほっそりしていた。
 びんからてきたので、わたしはちょっとおどろいた。わたしおくをたどってみた。これらのびんは、はるはじめ、どもたちにいつけてきれいにあらわせ、なかみずるためいちにちほどさかさにしてき、それからゴミやほこりのはいるのをふせぐためセンをして、なにかのばこにまとめておいたものだ。はいったのは、そのいちにちあいだのことにちがいない。
 ぐちふさがれたかれは、たぶんはじめはなんともおもわなかったろう。やがてなんにちかたち、くうふくかんじ、えささがになって、そこでぶんおちいっているじょうたいのどんなものかをさとっただろう。あらゆるりょくが、かれだっそうのうらしめた。やがてかれは、じたばたするのをやめた。かれはただ、じっと、かいるのをった。そしてはんとし――。わたしがセンをったとき、は、じっさいに、かんぱつをいれず、というすばやさでだっしゅつした。それは、スタート・ラインでごうほうもののみがもつすばやさだった。
 それからもういち
 はちじょうみなみがわえんで、その西にしはずれに便べんじょがある。おとこ便べんじょまど西にしかってひらかれ、ようしながら、うめあいだとおして、さんおおきくながめることができる。あるあさ、そのまどまい硝子がらすあいだに、いっぴきめられているのをはっけんした。さくのうちに、わたしだれかがけたのだろう。いちまい硝子がらすにへばりついていたは、まい硝子がらすいたかさなることによって、ゆうへいされたのだ。あしからあしさんすんほどの、はちじょうにいるのとどうしゅるいのやつだった。硝子がらす硝子がらす子のあいだにはかれしんたいあっぱくせぬだけのゆうがあっても、かさなったのワクはかれだっしゅつゆるすべきくうげきたない。
 わたしは、まえの、びんあいをすぐおもした。こんはひとつ、かれすえとどけてやろう、そんなこした。わたしいえものどもに、その硝子がらすめるな、といつけた。びんなかは、やくはんとしかんなにわず、ざつのセンの、きわめてわずかなくうげきからするかんによって、きていた。こんのは、丸々まるまるえた、いっそうおおきなやつだ、こいつとのこんくらべはながいぞ、とおもった。
 よう便べんのたびながめるは、てんこうこくとによってじまいをいろいろにする。れたにっちゅうのその姿すがたへいぼんだ。なか、さえわたるげっこうしたに、にぶおとなくしろひか、いまだほしひかりのこそらに、いただきちかくはバラいろどうからだあんしょくかがやあけがた――そういうさんかたななめにんまえたかたちで、はじっとしているのだ。かれはいつもじっとしていた。ゆうへいつけしたそのときから、かれのあがきをいちたことはなかった。わたしが、こんままけので「こら。」とゆびさき硝子がらすをはじくと、かれは、しかたない、といった調ちょうで、わずかにじろぎをする、それだけだった。
 ひとつきほどたって、かれたいいくぶんせたことにづいた。
 「おい、便べんじょせてきたぜ。」
 「そうらしいです。かわいそうに。」
 「だんじきかんは、いくにちぐらいだろう。」
 「さあ。」
 つまきょうない調ちょうだ。つまらぬものき、こそめいわく、といった調ちょうだ。わたしつまのその調ちょうにどこかていこうするちで、
 「とにかく、がさないでくれ。」とった。
 さらにはんつきたった。あきらかにほそくなってきた。そして、たいしょくはいいろいくぶんかあせたようだ。
 もうすこしでふたつきになるというある、それは、へきかんさんなんにちかのあとだったが、便べんじょほうで、「あ。」というつまこえがし、つづいて「げた。」とこえた。あいわらずよこになってぼんやりしていたわたしは、にががしたな、とおもったが、それならそれでいいさ、というちでだまっていた。
 ――いつも便べんじょそうのときは、硝子がらすかさねたままうごかしたりしてとんそうにはをつけていたのだが、今日きょうはうっかりいちまいだけにをかけた、はんぶんほどいてがついたときは、もうおよばなかった、にげあしはやいのにはおどろいた、まるでかまえていたようだ――そんな、わけじりのつませつめいを、わたしは、うんうんとながし、いのちみょうなやつさ、などとつぶやいた。じつのところ、あいこんくらべもたいになっていたのだ。とにかくかたがついた、どっちかといえば、よいほうかたがついた、そんなふうにおもった。
 
 わたしがこのまれたそのときから、わたしんでにんさんきゃくつづけてきた「」というやつ、たのんだわけでもないのによんじゅうはちねんかんだまってわたしいっしょあるいてきたというもの、そいつのそうぼうが、このごろなにかしきりとにかかる。どうもなんだか、いやにおうふうなつらをしているのだ。
 そんなとんでもないやつと、がんらいぶんみちれだったのだ、とにしみてづいたのは、二十歳はたちちょっとまえだったろう。つまりせいしきはじめたわけだが、つうくらべるとおそいにちがいない。のんびりしていたのだ。
 じゅうさんからよんにかけていちねんばかりじゅうびょうたおれ、あやうく彼奴きゃつまえげかかったが、どうやらけた。それらい、くみしやすしとおもった。もっとも、ひそかにおもったのだ。おおっぴらにそんなかおをしたら彼奴きゃつおこるにまっている。おこらしたらそん、というはらだ。きゅう調ちょうはやめだしたりされてはめいわくする。
 こういうことを仰々ぎょうぎょうしくくのはすすまぬから端折はしょるが、つまるところ、こっちは彼奴きゃつくところへどうしてもついていかねばならない。じたばたしようとしまいとおなじ――このことはぶんめいだ。のこるところはかんもんだいだ。かんくうかんからだっしゅつしようとするにんげんりょくかみでもぜったいでもワラでも、たりしだいつかもうとするりょく、これほどせつじつでものかなしいものがあろうか。いちねんばんねんちゅうぜんなんとでもうがいいが、かんねん殿でんどうにすぎなかろう。あきらめないのか、あきらめてはいけないのか。だがしかし、あきらめきれぬにんげんが、つぎからつぎげたくうちゅうろうかくの、なんそうだいなことだろう。そしてまた、なんさいせんこうきわめたことだろう。――てんじょういたいんけんするはえながめながら、ほかにしかたもないから、そんなことをうつらうつらとかんがえたりする。
 
 また、むしのことだが、のみきょくげいというもの、あのゆうかたを、むかしなにかでんだことがある。のみつかまえて、ちいさなまる硝子がらすだまれる。かれとくあしまわる。だが、しゅうてっぺきだ。さんざんねたすえ、もしかしたらねるということはちがっていたのじゃないかとおもいつく。ためしにまたひとねてみる。やっぱりむだだ、かれあきらめておとなしくなる。すると、であるにんげんが、そとからかれおびやかす。ほんのうてきかれねる。だめだ、げられない。にんかんがまたおびやかす、ねる、むだだというのみかく。このかえしで、のみは、どんなことがあってもちょうやくをせぬようになるという。そこではじめてげいならい、たいたされる。
 このことを、わたしはずいぶんざんはなしおもったのでおぼえている。ってまれたものを、がるえてしまう。のみにしてみれば、しきぜんの、したがってもんぜんこうどうを、いっちょうにして、われあやまてり、とつうかんしなくてはならぬ、これほどざんじんさはすくなかろう、とおもった。
 「じっさいひどいはなしだ。どうしてもだめか、わかった、というときののみぜつぼうかんというものは、――そうぞうがつくというかつかぬというか、ちょっとどうじょうあたいする。しかし、あたまかくしてしりかくさずという、がんらいどうもかれはばかものらしいから……それにしても、もういちねてみたらどうかね、たったいちでいい。」
 とうきょうからまいいがてらあそびにわかゆうじんにそんなことをわたしった。かれわらいながら、
 「のみにとっちゃあ、もうこれでギリギリぜったいというところなんでしょう。さいのもういちを、かれとしたらやってしまったんでしょう。」
 「そうかなア。ざんねんだね。」わたしざんねんというかおをした。ゆうじんわらって、こんなことをいだした。
 「ちょうどそれとはんたいはなしが、せんだってのなにかにていましたよ。なんとかばちなんとかいうばちなんですが、そいつのはねは、たいじゅうかくして、ちからっていないんだそうです。まア、はねめんせきとか、くうしんどうすうとか、いろんなデータを調しらべたあげく、りきがくてきかれこうのうなんだそうです。それが、じっさいにはへいんでいる。つまり、かれは、ぶんべないことをらないからべる、と、こういうんです。」
 「なるほど、そういうことはありそうだ。――いや、そいつはいい。」わたしは、このあいりきがくなるもののしんということをちらとあたまかべもしたが、なによりものうらぬからのうというそのことだけでじゅうぶんおもしろく、のみはなしによるものさからいくぶんなおることができたのだった。
 
 しんけいつうやロイマチスのいたみは、あんまりもんではいけないのだそうだが、いたみがさほどでないときには、もませると、そのままおさまってしまうことがおおいので、わたしはよくつまちょうじょにもませる。しかし、いたみをこうじさせてしまうと、もういけない。さわればなおいたむからはたのものは、どおりのつけようがない。
 しんけいつうかたで、かたりだけだというとき、ようおおじんつかまえてもませるのは、いまわたしにできるゼイタクのひとつだ。このごろではじゅうろくちょうじょが、たけははおやたようになり、足袋たびおなもんすうき、ちからてきたので、おおくこのかたにもませる。かいらい田舎いなかあらごとざつになったつまゆびさきよりも、ちょうじょのそれのほうがしなやかだから、よくくようだ。それにちょうじょは、ひだりしたわたしみぎかたをもみながら、わたししんたいつくえわりにほんひらいてふくしゅうなんかするから、まるでかんそんというのでもない。
 ときにはまたおしゃべりをする。がっこうのこと、せんせいのこと、ゆうじんのこと――たいていへいぼんはなしで、うんうんといてやっていればむ。が、ときどきなにしつもんをする。せんじつも、なんれんらくもないのに、ちゅうゆうげんか、げんか、といきなりかれて、わたしはうとうとしていたのをちょっとこづかれたかんじだった。
 「さあ、そいつはわからないんだろう。」
 「がくしゃでも?」
 「うん、ていせつはないんじゃないのかな。――それは、あんたより、おとうさんのほうりたいぐらいだよ。」い、わたしちかごろんだあるろんぶんおもしていた。ちゅうにおけるうずじょうせいうんかずは、すいていやくいちおくで、それがへいきんひゃくまんこうねんきょいてらばっている。そのせいうんの、いまられるさいえんのもの、ちゅうへんきょうともいうべきところにあるものは、きゅうからのきょやくおくせんまんこうねん、そしてかくせいうんちょっけいまんこうねん――そんなことがいてあったようだ。そして我々われわれたいようけいは、やくいちおくといわれるじょうせいうんのうちのあるひとつの、ささやかないちこうせいぶんたるにすぎない。「ちゅうだい」というようなことで、あるかんしょうおちいったけいけんぶんにもある、とおもった。ちゅうがくじょうきゅうせいころだったとおもう。いまじゅうろくちょうじょおなだんかいはいっているとかんずると、なにかいたわってやりたいおもいにられるのだった。
 「いちこうねんというのをっているかい?」とく。
 「ハイ、ひかりいちねんかんはしきょであります。」と、わざときょうしつとうべんふうう。
 「よろしい。では、それはなんキロですか。」こちらもせんせい調ちょうになる。
 「さア。」
 「ちょっともむのをやめて、かみえんぴつけいさんたのむ。」
 ええと、ひかりそくは、いちびょうかんに……などといながら、ちょうじょざんかさねてじゅうさんけたじゅうよんけたすうし、うわ、ぜろかみからハミしちゃったとった。そいつをおくせんまんばいしてくれ、とうと、そんなてんもんがくてきすうこまる、とう。
 「だって、これ、てんもんがくだぜ。」
 「あ、そうか。――なんだか、ぼおッとして、かなしくなっちゃう。」とちょうじょえんぴつはなした。
 二人ふたりはしばらくだまっていたが、やがてわたしいだす。
 「でもね、すうおおきさにおどろくことはないとおもうよ、すうなんて、にんげんはつめいひんだもの、たんかたでどうにでもなる。かりいちおくこうねんぐらいをたんにする、ちょうこうねんとかってね、そうすれば、ちゅうはんけいちょうこうねんはんさんちょうこうねんてんさんなんだそれだけかということになる。――はんたいげんてきたん使つかうとすると、ぜろかずは、かみからハミすどころか、あんたがいっしょうかかったってききれない。」
 「うん。」としずかにこたえる。
 「たんきどころということになるだろう。ゆうげんなら、いくらぜろかずおおくたって、にんげんあたまなかはいるよ。ところが、げんとなると……。」
 かみ、ということがそこへかんだので、ふとわたしくちをつぐんだ。ちょうじょは、かいてきわたしみぎかたをもんでいる。もんだいぶんうつされたかんじで、なにかぶつぶつとわたしあたまなかでつぶやきつづけるのだった。
 ――我々われわれちゅうせきともいうべきものは、いったいどこにあるのか。かんくうかんの、我々われわれはいったいどこにっかかっているのだ。そいつを我々われわれぶんしんることができるのかできないのか。ったら、我々われわれ我々われわれ々でなくなるのか。
 のみなんとかばちあいかんがえる。わたしめたは、ともぐうぜんによってだっしゅつしえた。るかぬかわかりもせぬぐうぜんを、しずまりかえってつづけたかいのがさぬそのすばやさには、はんかんめいたものをかんじながらも、みごとだとおもわされる。
 のみはばかだ、ふぬけだ。なんとかばちは、こうずだ。てっぺきはすでにのぞかれているのに、みずかのうほうしてうたがわぬのみしんずることによってのうのうにするはち我々われわれはそのどっちなのだろう。我々われわれわなくていい、わたしわたししんはどうだろう。
 わたしとしては、のようなれいせいな、くつなやりかたはできない。できればいいともおもうが、しょうわぬというちがある。
 なにがしばちこうずのしんには、とうていおよばない。だがしかし、これはしんというものだろうか。かれとしてしきなら、そこにしんなんもないわけだ。はちにとってはぜんなだけで、かれこれわれることはないのだ。
 ばかでふぬけののみに、どこかわたしたところがあるかもしれない。
 ゆうは、あるのだろうか。あらゆることはていされているのか。わたしゆうは、なにものかのすじきによるものなのか。すべてはまた、ぐうぜんなのか。てっぺきはあるのかないのか。わたしにはわからない。わかるのは、いずれそのうち、とのにんさんきゃくわる、ということだ。
 わたしのみはちるように、どこかからわたしいっきょいちどうているやつがあったらどうだろう。さらにまた、わたしめ、がしたように、わたしのあらゆるかんがえとこうどうとをせいしているやつがあったらどうだろう。あののみのように、わたしだれかからざんおもらされかたけているのだとしたらどうなのか。おまえはじつべないのだ、と、わたしというはちだれかにわれることはないのか。そういうやつががんらいあるのか、それとも、我々われわれがつくるのか、さらにまた、我々われわれがなるのか、――それをおしえてくれるものはない。
 
 はえはうるさい。もうふゆだから、ざかりにしかてこないが、とんにあごまでめたわたしかおまであそにする。
 はえについてだいはっけんをした。かれほほにとまると、わたくしほほにくうごかすか、くびをちょっとるかして、これをてる。ったかれは、すぐおなじところにもどってくる。またう。って、またとまる、これをさんかえすと、かれあきらめて、もうおなしょにはないのだ。これはどんなあいでもおなじだ。さんわれると、すっぱりえてしまう、というのが、どのはえくせでもあるらしい。
 「おもしろいからやってごらん。」とわたしいえものうのだが、「そうですか、おもしろいんですねえ。」とくちさきだけでいながら、だれもそんなじっけんをやろうとはしない。いそがしいのです、とごんへんとうをしている。もちろんわたしいはしない。だが、いそがしいというのはどういうことなんだ、それはそんなにじゅうだいなことなのか、とはらなかでつぶやくこともないのではない。
 それからまた、わたしは、にもめずらしいことをやってのけたことがある。ひたいいっぴきはえつかまえたのだ。
 ひたいにとまったいっぴきはえ、そいつをおうというはっきりしたちでもなく、わたしまゆをぐっとげた。すると、きゅうわたしひたいで、さわぎがこった。わたしのそのどうによってひたいにできたしわが、はえあしをしっかりとはさんでしまったのだ。はえは、なんぼんらぬが、とにかくあしわたしひたいにつながれ、むだにおおげさにはねをぶんぶんいわせている。そのろうばいのさまはるごとくだ。
 「おい、だれてくれ。」わたしは、まゆおもいきりひたいにしわをせたとぼけたかおのままおおごえした。ちゅうがくいちねんせいちょうなんが、なにごとかというかおでやってた。
 「おでこにはえがいるだろう、とっておくれ。」
 「だって、とれませんよ、はえたたきでたたいちゃいけないんでしょう?」
 「で、すぐとれるよ、げられないんだから。」
 はんしんはんちょうなんゆびさきが、なんなくはえつかまえた。
 「どうだ、エライだろう、おでこではえつかまえるなんて、だれにだってできやしない、くうぜんぜつけんかもしれないぞ。」
 「へえ、おどろいたな。」とちょうなんは、ぶんひたいにしわをせ、かたでそこをなでている。
 「きみなんかにできるものか。」わたしはニヤニヤしながら、かたはえだいそうにつまみ、かたひたいをなでているちょうなんた。かれじゅうさんおおがらけんこうそのものだ。ロクにしわなんかりはしない。わたしひたいのしわは、もうふかい。そして、ひたいばかりではない。
 「なになに? どうしたの?」
 みんなつぎからやってた。そして、ちょうなんほうこくで、いっせいにゲラゲラわらいだした。
 「わ、おもしろいな。」と、ななつのじょまでなまわらっている。みんながをそろえたように、それぞれのひたいをなでるのをていたわたしが、
 「もういい、あっちへけ。」とった。すこげんになってきたのだ。


あいのサーカス べつやく みのる
 ぞうと、ちいさなぞう使つかいのしょうねんせたいかだが、そのみなとまちにゆっくりながきました。もうみなとはすっかりよるで、それまでにぎわっていたはしけまりも、とうもひっそりとしずまりかえっております。せたいぬいっぴき、それまでたどってきたにおいの行方ゆくえをそこでうしなってしまったせいでしょうか、ガスとうもと?をぼんやりうろついているだけでした。
 「おや……?」
と、さいしょにそれにづいたのは、とうしょのウルじいさんでした。
 「おーい……。」
 ウルじいさんは、いかだのうえしょうねんこえをかけてみました。
 「どうしたんだい……?」
 しょうねんはウルじいさんをてにっこりわらうと、だまっておきほうゆびさしました。
 「あっちからたのかい?」
 しょうねんはうなずきました。しかしそこには、やみしずくろうみが、おもおもしくうねりながらひろがっているだけでした。
 うわさが、ひとくちからくちへささやきながらつたえられて、なかだというのに、みなとにはおおぜいひとびとあつまってきました。ひとびとかこまれたなかしょうねんぞうは、おたがいをかばいうようにって、すこあんそうにひっそりとっておりました。
 「おなかがすいているんじゃないのかい?」
 《ネコとエントツ》ていのクメばあさんがきました。しょうねんがかすかにうなずいたので、さっそくなんにんかのものが、ものりにはしりました。
 「ぞうのもようしなくちゃいけないよ。ぞうだっておなかがすいているだろうからね。」
 「そりゃあ、そうだ。」
 そこでまた、べつなんにんかがぞうべるものりにはしりました。
 そのころウルじいさんは、いっとうでんしんのタテたのんで、ほうぼうせんでんしんわせをしておりました。つまりウルじいさんは、サーカスのいちせたせんおきなんして、しょうねんぞうだけがそのみなとながいたのだとかんがえたからです。しかし、どのみなとかんしょも、そして沿えんがんけいたいも、そんなほうこくけていないのでした。
 「おかしいな……?」
 「あのにもういちいてみたらどうです?」
 しょうねんぞうは、ひとびとれがつくったかこみのなかで、すこずかしそうに、つつましくしょくをしておりました。
 「てごらんなさい……。」
 とうしょからてきたウルじいさんとタテに、ぼくかんのスミおくさまはなしかけてきました。
 「なんてしつけのいいどもなんでしょう。おしょくまえに、ちゃんとおいのりまでしたんですよ。ひどくおなかがすいていたんでしょうに。」
 ひとびとは、まるでそこでひとつのせきおこなわれているかのように、しょうねんぞうのほんのちょっとしたしぐさやひょうじょうにいちいちかんどうしながら、いきころしてそれをまもっておりました。
 やがてしょうねんは、ナイフとフォークをき、ナプキンでくちまわりをていねいぬぐい、コップのみずをちょびっとんで、それから、あたりのひとびとにふと、ほほみかけました。ひとびとも、ほっとためいきをついて、おもわずほほかえしました。しょくわったのです。
 「ねえ、きみ……。」
 ウルじいさんがちかづいていって、やさしくはなしかけました。
 「きみたちのふねは、なんしたのかい……?」
 しょうねんは、だまってくびりました。
 「だってそれじゃあ、きみとこのぞうは、どこからたんだい……?」
 しょうねんは、やっぱりだまったまま、さっきとおなじように、くらおきほうゆびさしました。もっともひとびとなかには、そのときしょうねんは、うみではなくそらゆびさしたのだとものもおりました。しょうねんゆびは、すいへいせんよりももっとうえいていた、とうのです。しかしいずれにせよ、それではなにもわかりません。
 ウルじいさんは、もうすこくわしくこうとしてしましたが、それはまわりのひとびとめられてしまいました。
 「およしよ。てごらん。このはひどくねむそうじゃないか。」
 「そうですよ。くことはいつでもできるんです。まずねむしょようしてやるべきですよ。」
 しかたがありません。まるでしょうねんをいじめているみたいにいわれて、さすがのウルじいさんもすこしむっとしましたが、しょうねんほんとうねむそうでしたので、ひとびとけんしたがうことにしました。
 「いいよ。こっちへおいで……。」
 しょうねんぞうはなばなれにするのはいかにもかわいそうながして、ウルじいさんはかいがんどおりのだいさんそうに、わらをいっぱいめ、しょうねんところにはやわらかなもうようして、そこにまってもらうことにしました。
 「さあ、みんなていってください。このはもうるんですから……。」
 ウルじいさんは、そこまでぞろぞろついてきたまちひとびとそうからして、それから、よこになったしょうねんえりもとのもうなおしてやりました。
 「あんしんしておやすみ。こわいことはなんにもないからね……。」
 しょうねんはにっこりわらってをつむりました。たかかりりのまどからあおじろひかりが、くろやまのようにうずくまったぞうと、しょうねんてん使のようなかおを、ぼんやりとらししております。ウルじいさんは、あしおとしのばせてそうました。
 「ねえ、どうでした……?」
 だいさんそうまえには、まだおおぜいひとびとあつまっていて、ウルじいさんがてくるとしんぱいそうにちかづいてきました。
 「ねむりました。だいじょうですよ。とてもやさしいかおをして、まるでしんぱいなことはなにもないみたいに……。」
 「それはよかった……。」
 ウルじいさんのはなしが、ちかくのひとからとおくのひとこ?のざわめきのようにつたえられて、ひとびとは、まるでぶんたちのどもがそうであるかのように、よろこいました。
 そのつぎから、しょうねんぞうの、そのまちでのせいかつはじまりました。あいわらずなにわなかったので、ウルじいさんのりょくにもかかわらず、どこからどうやってたのかということは、とうとうわからずじまいでしたが、まちひとびとにとっては、もうそういうことはどうでもいいことでした。
 しょうねんぞうはたいてい、だいさんそうまえとっていすわって、うみたり、そらたり、みなとはたらひとびとたりしてごしました。おしょくかんには、《ネコとエントツ》ていからそこへ、しょくはこばれました。ときどきまちをおさんすることもありましたが、そんなときでもしょうねんは、ちいさなどもがははおやうように、ぞうってあるきました。しょうねんぞうのそうしたいたわり姿すがたているだけで、まちひとびとふかかんどういました。とくしょうねんが、なにかのひょうににっこりわらうと、ひとびとはまるで、こころもとろけそうになるくらい、しあわせなぶんになるのでした。
 「今日きょうみせまえとおったのでおはなひとつあげたんですよ。そうしたらとてもうれしそうににっこりわらって……。ええ、そうなんです。あのはきっとおはなきなんですよ。」
 はなのおかみさんのネイは、そうひとびとはなしました。
 「ゆうべ《にんぎょていかどぐちにうずくまっていてね、なかでヨナのうたうのをいていたよ、ひどくいっしょうけんめいにね。だからそうなんだよ。あのおんがくきなんだよ。」
 はしけがしらのツマじいさんは、そうひとびとほうこくしました。ひとびとのそうしたおもいやりにかこまれて、しょうねんぞうは、しずかにつつましく、そしておだやかなまいにちおくっていました。
 しかし、ちて波止場はとばひとかげがなくなるころだいさんそうまえぞうならんでうずくまって、なまりいろうみほしのきらめきはじめたそらをぼんやりとながめているしょうねんうし姿すがたは、さすがにさびしそうで、とおくからそれをまもひとびとなみださそいました。
 「やっぱりねえ……。そうなんですよ、おとうさんやおかあさんのことをかんがえているんです。」
 「かわいそうに……。」
 そしてひとびとは、しょうねんにおとうさんやおかあさんのいないのが、まるでぶんたちのせきねんであるかのように、こころぐるしくおもうのでした。
 「明日あす?わたし、あのうわかぎきをつくろってやりましょう。そうすれば、いっときおかあさんのいないさびしさが、まぎれるかもしれませんから……。」
 「そうだね。そのうちにわたしが、ふねさかなりにれてってやろう。おとうさんとそうしているようなちになるかもしれないからな。」
 いながらひとびとは、そうしてやったときのしょうねんのうれしそうなかおおもかべて、それだけでもうかんどうしてしまうのでした。しょうねんのためにやさしくしてやりたいというまちひとびとちが、しだいにひろがって、まちぜんたいなごやかになってゆくようでした。
 ところで、しょうねんぞうながいてからじゅういちにちのあるのことです。とつぜん西にしかいどうからそのみなとまちへ、よんとうてのおおきなくろはこしゃいきおいよくんできました。
 「やあ、みなさん。」
 あかがおふとったしんなかからあらわれ、シルクハットをってていねいにおじぎをすると、ステッキをりながらようこえげました。
 「わたしは、きんせいサーカスいちだんちょうつとめるクグであります。」
 にぎやかなことのきなまちひとびとが、さっそくあつまってきました。
 「じゃあ、あなた、ここでこうぎょうをするのですか?」
 あつまってきたひとびとだいひょうして、ウルじいさんがいてみました。
 「いや、そうじゃありません。」
 しんこたえました。
 「こうぎょうんだのです。わたしどもはりょうきんをいただきにあがりました。」
 「こうぎょうんだって……? だってこのまちにはサーカスなんて……。」
 ウルじいさんのことさえぎって、ふとったしんはさらにおおきなこえげました。
 「きんせいサーカスいちのスター、ぞう使つかいのピピしょうねんしょうかいします。」
 しんばしたステッキのさきに、だいさんそうがあって、そのなかからゆっくり、しょうねんぞうてきました。そして、やっぱりすこしはにかんだまま、あつまったひとびとていねいにおじぎをしました。
 「あれが……? あれがそうなんですか?」
 「そうです。ありがとうございました。とおかんこうぎょうつとめさせていただきました。」
 「だって、あなた……。」
 ウルじいさんはあぜんとしながらも、ことぎました。
 「あのは、なんにもしなかったんですよ。」
 「いいえ。」
 しんしんたっぷりに、あつまったひとびとかおをゆっくりながめわたしながらいました。
 「みなさんは、あのました。そして、かんどうしました。もちろん、あのつなわたりはしなかったでしょう。くうちゅうブランコもしなかったでしょう。さかちをすらしませんでした。あのがやったのは、だんみなさんがやっておられるように、て、きて、しょくをして、おさんをして、そらて、うみただけです。しかし、みなさん。みなさんはそれをて、かんどうしたはずです。そうですよ、みなさん。これがわたしたちのサーカスなんです。あいのサーカスです。そのかんどうは、これまでごらんになったどのサーカスのそれより、おおきかったはずなのです。さあ、いいですね、それではフィナーレです。」
 しんげると、くろはこしゃなかがぱっくりれて、なかから、しょうねんははおやらしいわかうつくしいじんが、ゆっくりあらわれました。そして、しょうねんかおに、これまでにひとびとたどれよりもおおきなよろこびが、はなやかにひろがって、そのままははおやなかみました。しょうねんとそのははおやは、しっかりといました。
 あつまったひとびとおもわずなみだながしました。そしてこえげました。それが、だいかんせいになって、はくしゅになって……。
 「ね、おわかりでしょう……?」
 しんは、ウルじいさんをかえって、ずるそうにわらいながらいました。
 「どんなめいじんの、どんなにすばらしいはなわざも、なにらないなにもできないしょうねんじゅんしんたましいほどかんどうてきではないのです。」
 きんせいサーカスのしんあつまったひとびとからたっぷりとけんぶつりょうをせしめ、しょうねんぞうはこしゃあらみ、げられないようにそとからおおきなかぎをがちゃんとかけると、そのままいずこへともなく、はしっていきました。


しょうねんというまえのメカ まつあお
 しょうねんというまえのメカがぼうけんたびた。しょうねんというまえのメカのおくそうには、ぼうけんることがはじめからインプットされている。だからしょうねんたびる。しょうねんづけられてはいるが、どこからどうてもしょうねんとしかいようのないにつくられてはいるが、せいべつははっきりしない。だから、ここではただしょうねんぶことにする。
 みっばんあるつづけたしょうねんは、こぢんまりとしたむらにたどりき、むらぐちにある、まどこうからあたたかなひかりれているいっけんいえをたたく。メカだからほんとうつかれることはないのだが、なにぶんそうインプットされているため、こしかれたエプロンでをふきふきてきたおかみさんに、しょうねんいち?や?宿やどもとめる。
 おかみさんはしょうねんまねれ、だんわきのテーブルのまえしょうねんすわらせる。だんなかではだいだいいろほのおがパチパチとえている。おかみさんがあたたなおしたスープをすすっているしょうねんつめながら、しろいひげをたくわえたこのいえあるじしつもんする。
 「そんで、おまえさんのまえはなんとうんじゃ」
 かいてきくちはこんでいたのさじのうごきをめてしょうねんう。
 「ぼくのまえしょうねんです」
 そのしゅんかんいっあるじとおかみさんのいろわる。おかみさんはかおこうちょくさせ、がたんとおとててイスからがると、さんそのからあとずさり、あるじくちはしはさんでいたパイプをぽろりととす。パイプのはいゆからばる。
 「なに、しょうねんじゃと」
 あるじしょうねんをにらみつけると、わなわなといかりにふるえたこえう。
 「おまえさんがしょうねんだというなら、はなしべつじゃ。すまんが、いますぐこのいえていってもらおうか。わしは、わしらはしょうねんなんてだいきらいなんじゃ!」
 あるじうしろで、おかみさんもエプロンでなみだをぬぐいながら、こくこくとうなずいている。あるじとおかみさんのむねうちきょうめいしたのか、だんほのおはげしくはぜる。れいせいかおをしているしょうねんをよそに、このいえあるじはなおもつのる。
 「しょうねんじゃと。わしらをばかにするのはいいげんにしてくれ。しょうねんだとってはわしらのまえあらわれ、きにみ、きにべ、じゃるまい、わしらをさんざんしあわせなちにさせておきながら、あるぶんにはおおきな使めいがあると、こんなところにはいられないと、まえからえちまう。ドラゴン退たいやらなぞてきしゅうらいやらなにらんが、そしたらどうだ、そのはとんとおとなしだ。はがきひとつよこしたためしがない。もうわしらはうんざりなんじゃ。もうこのあわれなとしりたちをそっとしておいてくれんか、年々ねんねんさみしさがにしみるようになってのう。ああ、すべてはむらぐちの、いちばんしょうねんたちのにとまりやすいしょいえててしまったわしがわるいんじゃ」
 あるじとおをして、まどそとる。いたおとこほおなみだつたう。おかみさんがエプロンではなをかむせいだいおとひびく。
 「ってください」
 しょうねんは、ゆっくりとしたペースをたもち、しずかなこえ二人ふたりげる。
 「ぼくは、これまでのしょうねんとはちがいます。あなたがたきずつけるようなことはけっしてしません」
 さきくちひらいたのはおかみさんだった。
 「たしかにこのまえしょうねんだっていうけど、いままでのしょうねんたちとはちょっとちがうよ。おうせいしょくよくでスープをぺろりとたいらげもしなかったし、まだおかわりもしていない。くちびるはしにスープをつけたままにして、わたしのせいにアピールもしてこなかった」
 あるじはふむとしばしかんがえをめぐらせると、そうかもしれんなとおかみさんにどうする。
 「なるほど、このしょうねんとくゆうのまっすぐなまなしでつめてきたりもしないしな」
 「ぼくにまかせてください」
 しょうねんおだやかなこえでそううと、からになったわんとさじをって、だいどころへとあゆる。そのうし姿すがたあるじとおかみさんは、それぞれおどろきにひらかれたわせた。いままでのしょうねんたちは、このだいどころなどというしょがあるとはいちおもったこともなかっただろう。
 しょうねんろうふうきょうどうせいかつがはじまった。しょうねんさいしんちゅうはらい、すべてをてきなバランスにたもった。ろうふうがあらあらとよろこんで、うっとりとつめてしまうようなしょうねんらしいしゅんかんけっしてつくらなかった。ふくどろだらけにしたり、ボタンをはじきばしたりしなかった。しょうねんようでもようでもいけなかったし、しんどうでももんだいでもいけなかった。どちらかになると、それはもうしょうねんになってしまう。しょうねんにはしゅっしょう?みつもなかったし、せん代々だいだいつたわるなにかをたくされてもいなかった。なにかががねになって、きゅうねむっていたちからまされることもなかったし、もちろんえらばれしものではさらさらなかった。からだのどこにも、おもわせぶりなかたちをしたキズやアザはなかった。なにごとにもさいのうはっせず、こんなうんめいぼくがえらんだわけじゃないとドラマティックにさわてもしなかった。ろうふうこころひらかず、どくむねうちかさなかった。ぼくのとうさんとかあさんはあなたたちだとろうふうむねんだりもしなかった。しょうねんはただ、てきにそこにいた。にくたいてきにも、せいしんてきにもせいちょうしなかった。なにより、ていかないということがたいせつなことだった。どこにもいかないということが。
 なんねんかたったころ、このいえにはじめてまねれてもらったときにすわったイスにしょうねんすわらせると、ろうふうおだやかなひょうじょうでこうった。
 「あんたのせいはよくわかったわ、今日きょうまでありがとう」
 「おまえさんのおかげで、わしらのしょうねんのイメージはわった。もうかなしまんできていくからあんしんしておくれ」
 しょうねんしずかにうなずいた。
 「わかりました」
 ろうふうしょうねんきしめたが、しょうねんはぎゅっときしめかえさなかった。しかし、しょうねんするところは、二人ふたりにはちゃんとつたわっていた。
 つぎしょうねんはそのむらった。
 しょうねんあるつづけた。まだごとわったわけではない。しょうねんは、いたるところであのろうふうはがきをし、きんきょうらせた。そうインプットされているしょうねんにとっては、たいしてめんどうなことではなかった。
 しょうねんたびつづいた。あるせんそうをしているまちにたどりいた。どくかいはつされたせんとうらしきものかげに、かなしそうなをしたしょうじょすわんでいることにしょうねんづいた。しょうねんよこすわると、しょうじょはそっとかたす。
 「がついたら、わたしのほうがたたかってるの。まいかいかれじゃなくて、かれのサポートについたわたしのほうがけがをするの。わたしがしょうねんまもるはめになるの。しかも、しょうねんきゅうだいたんこうどうるからすごくめいわくする。しょうねんのまわりでばたばたとひとんでいくのに、かれだけはぜったいなないの。わたしがけがをするたびに、ものすごくあやまってくるんだけど、それだけなの。こんぽんてきわらないし、なんかもうつかれちゃった」
 しょうねんしずかにうなずいた。
 そのから、しょうねんたたかいにさんした。しょうねんはもろさやよわさをけっしてていせず、どんなめんにもしゅくしなかった。せんじょうさんさをひょうじょうつめた。どんなちゃこうどうらなかったし、ばつなアイデアもおもいつかなかった。そつなくせんとうさんし、けっしてえいゆうてきこうはせず、ひとぬにまかせた。ただ、しょうねんのせいでいのちとすひとだれ一人ひとりとしていなかった。だれにもめいわくをかけず、だれにもたすけてもらわなかった。おおきくもしなかったし、ちいさくもしなかった。
 なんねんかたったころせんそうはまだわるはいせなかったが、しょうじょせんとうらしきものかげしょうねんった。
 「あなたのおかげで、しょうねんらしくないしょうねんがいることがわかったわ。わたし、もうだいじょうよ」
 しょうねんしずかにうなずいた。
 つぎしょうねんはそのまちからった。
 しょうねんたびつづけた。どのむらでも、しょうねんあくみょうだかそんざいだった。はじめはやさしかったひとたちが、しょうねんまえげると、のひらをかえしたようにつめたいたいせ、しょうねんにされたちをかなしいかおかたす。しょうねん人々ひとびとはなしみみかたむけ、かれらにつづけた。しょうねんひとつのむらまちさいていでもなんねんごすことになり、ときにはなんじゅうねんひつようあいもあったが、メカであるしょうねんにとっては、たいしてたいへんなことではなかった。
 今日きょうしょうねんあるく。しょうねんきずつけられたにんげんたちのこころのケアのためかいはつされた、しょうねんというまえのメカは今日きょうたびちゅうだ。とっきょしゅつがんちゅう