探求 論理国語 付属教材・資料見本
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尾近くの「わしは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。」(三三・上3)の表現から、ち■は、■わし■とのやりとりの中にとも「わし」は「誰と生きてきたか」、にあると考えられるだろう。■わし■は現また、「誰とともに生きつつあるか」、考えてみよう。読解答解説深める手がかり2  31   【評価の観点】  知︙知識・技能話︙話す・聞く能力書︙書く能力主︙主体的に学習に取り組む態度読︙読む能力〈知〉の深化 評論「いのちは誰のものか?」において、人の身体と生命は「いつも他の身体との交わりややりとりの中にある」(二八・2)と述べられているが、「わし」が現実世界と記憶の世界を行き来するのは、どういうことがきっかけになっていると考えられるか、話し合ってみよう。読解答解説晴れた空の下で小説の冒頭「わしらは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。」(三〇・上1)と、末教科書(三〇〜三三)◆◆◆評論Ⅰ1・2の問いを踏まえて、二九ページ〈知〉の深化の問いについて考えてみよう。主解答卵焼きや手鞠麩のおつゆ等の料理を食べる、食事をすることがきっかけになっている。まず評論の本文の■いつも他の身体との交わりややりとりの中にある■(二八・2)を含む一文に着目する。直前に■食や性、育児や介護の場面ひとつとってもわかる■とあり、これが■他の身体との交わりややりとり■が行われる場面の具体例であることがわかる。ここで目を小説に移すと、物語の中で■わし■が現実世界と記憶の世界を行き来することが、■わし■にとっての現在の日常生活であることが読み取れ、これが他の身体との交わりややりとりの場面となっている。■わし■が亡き■婆さん■との記憶の世界に身を置く場面では、黄色い卵焼き、小さな手鞠麩の浮くおつゆ、浅漬けのきゅうり等の料理がその世界を支えており、■わし■は亡き■婆さん■とともに生きている。そして、■わし■が■婆さん■のい ■わし■は長年■婆さん■と生きてきた。 ない現実世界に戻る場面では、■それよりお味、薄過ぎませんでした■(三二・下7)という■妙子さん■の料理に関する問いかけがきっかけとなっている。評論で挙げられていた■食や性、育児や介 護の場面■の中で、特に■食■がこの小説では重要な意味を持っていることがわかるだろう。■食事■は、■わし■が現実世界と記憶の世界とを行き来する際のスイッチの役割を果たしているのだ。■食べることと生きることの、区別がようつかんようになったのだ■(三〇・上2)という■わし■の言葉は、生命と生活がまさに■ライフ■であり、■いのちの最も基礎的な場面で、人は互いのいのちを深く支えている■(二八・7)ことが象徴されていると言える。そして、■婆さん■が亡くなった後は、思い出の中の■婆さん■と介護してくれている■妙子さん■とともに生きつつある。するならば、■わし■のからだ、そしてい冒頭と末尾近くの一文の表現を比較すると、明確な違いは主語にある。この■わしら■から■わし■への主語の変化は、維持してくれている■妙子さん■のもの初めは現実と思われた世界が■わし■の記憶の中の世界であり、現実世界において■婆さん■は亡くなっていたというどんでん返しのエピローグと対応している。同時にそこには独りで■ごはんを食べる■しかなくなった■わし■の悲しみも漂う。■婆さん■と長い人生をともに生きてきた■わし■は、ともに生きる誰かを失ったのだ。しかし、人の■いのち■は■最も基礎的な場面■(二八・7)、つまり■食や性、育児や介護の場面■(二八・1)での■他との身体との交わりややりとりの中■(二四・14)にあり、ともに生きる人々全体の中を流れているという鷲田の論を借りれば、現実世界では■特定の身体の座■・ ■からだは誰のものか、いのちは誰のを失ってはいても、この小説の記憶の世界の中においては、■婆さん■の■いの実世界における■婆さん■の死に気づくと同時に、新たに思い出の中の■婆さん■とともに生きつつあるわけだ。評論のテーマに沿って、■■わし■の■からだは誰のものか、いのちは誰のものか■(二八・9)■という問いを立てるとのちは、■わし■が共に生き、思い出の中で今も生き続ける■婆さん■と、■わし■の生命/生活(ライフ)を介護によってでもあると言うことができるだろう。ものか■についてどう思うか。例1  鷲田の評論を読み、江國の作品を読むと、からだもいのちも自分だけのものではないと思う。例2  二つの文章を読むと、からだといのちは自分のものであると同時に自分と関係のある人たちのものでもあ◆◆◆38

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