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五三ページ1 沛公 1 旦日 1 項王 ■見■は、■みル■■みユ■■あらは 見 教科書(五三・1~五四・4)授業展開例 (発問と解説)語句と文法の解説㈠沛公、項王に見ゆ①鴻門之会2 教科書(五三〜六三)ンチメートル)以上の大男で、その怪力は鼎(三本の足のついた重い銅器)を持ち上げるほどであった。また、才気も人並み以上に優れており、呉中(会稽郡の都)の名門貴族の若者たちも項籍にはみな一目置いていたという。秦の始皇帝が江南に来た際に、その行列を見て言ったという不■な言葉■彼取りて代はるべきなり。■も有名で、それを聞いた項梁は、項籍を■奇■(見どころのある人物)と評したことが伝えられている。項梁に育てられ、項梁が健在なうちはその右腕として活躍していたが、項梁の死後、鉅■■鹿■■での秦との激戦を制して以降は、反秦連合軍の総大将と目されるようになり、自らもその地位を自負していた。なお、■項王■という表現は、■項羽本紀■においては鉅鹿の戦い以後に用いられており、それ以前は■項籍■または■項羽■と記されている。を派遣して函谷関を封鎖させ、項王を怒らせてしまったことを謝り、項王に刃向かう気持ちがないことを述べるのが、●公側の■鴻門之会■における目的であった。●導入のポイント ︹秦︺ 前二二一〜前二〇六。中国初の統一王朝。皇帝を頂 ︹陳勝・呉広の乱︺ 秦の二世皇帝胡■亥■■元年、日雇い農夫であ ︹項梁・項王の登場︺ 項梁は、秦に滅ぼされた楚の項燕の ︹沛公の蜂起︺ 田舎の小役人だった●公は、人夫の引率中史伝Ⅱ1 年表などを参考に︑項王と沛公の関係と「鴻門之会」に至るまでの経緯を理解する︒点とする強力な専制体制で、法制の整備、思想統制、大規模な土木事業などを推進した。民衆は過酷な労役や重税に苦しみ、前二一〇年に始皇帝が死去すると各地で反秦運動が続出し、三代十五年間の統治の後に崩壊した。った陳勝と呉広が起こした反乱。二人は徴兵され任地に赴く際、大雨で期日までに到着できなくなり、どうせ処刑されるならばと蜂起した。一時は函谷関を突破する勢いだったが、内紛がもとで秦の正規軍により壊滅した。子で、項王は項梁の甥。会稽郡の郡守を殺して蜂起し、陳勝の死後、反秦勢力の中心となった。項王は身の丈八尺余りの偉丈夫で、項梁の右腕として重んじられていた。その大半に逃げられ、任務を放棄し自ら農民の首領となる。その頃陳勝・呉広の乱を契機に●県でも混乱があり、●県の父老らは県令を殺して●公を迎え入れた。その後、楚の懐王の傘下に入り項梁軍の一部隊となる。教科書五三ページの梗概と地図︑付録の中国文化史劉邦(前二四七〜前一九五)。漢事王項朝のについ項のて氏名のは将代の解々項説楚燕の。を将項掲軍籍では載、身し末のの丈ま叔八し父尺項(た梁約。の一父八は四楚セ創始者、高祖。字は季。●(今の江蘇省●県)で挙兵し、県令となって以後、●公と称した。名門出身の項王に対して、●公は家柄も教養もなかったが、他人の意見を取り入れる度量の広さから、蕭■■■何■・張良・韓信などの有能な部下に恵まれ、咸陽入城の際には、十万の兵力を擁する将軍になっていた。この前夜、項伯は項王が●公軍を攻撃しようとしていることを知り、かつて命を助けられた恩のある張良にこれを告げた。張良がこれを●公に報告すると、驚いた●公は項伯に項王へのとりなしを求め、翌日、謝罪のために項王の陣に赴くことを約束した。一方、項伯は自軍に戻り、●公への攻撃を中止するよう項王を説得した。こうして、両者の鴻門での会見が実現した。ル■■まみユ■■…る■■…らル■などと訓読される。■まみユ■は、身分の高い人に謁見すること。■まみユ■という訓読によって、●公と項王の関係が示されている。●公は会話の中で自分を■臣■と称するが、これも同様に、両者の力関係語句と文法の解説とこれまでのいきさつを反映したものといえる。読み取り1の う項え王 で項重籍(要前と二三な二る〜前語二句〇や二)文。字法は羽。謝曰 ■謝■は、詫びる、謝罪すること。武将56

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