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1出典解説…教材ごとに筆者(作者)や出典に関する詳しい解説を掲げました。●■源氏物語■源氏物語(若紫との出会い)作者と成立1 出典解説物語ょ    書 名 ●3文もんじ章ょうの生しうの出身の文人で︑詩歌に秀でていた︒一方︑ 「源氏」とは︑親王に「源」の姓を賜って︑臣籍に列することを言う︒光源氏は桐壺帝の第二皇子として生まれながら︑母が更衣で終わってしまったために︑源氏という臣籍に降下しなければならなかった︒天皇になる資格がありながらなれなかった源氏が︑藤壺宮との密通により天皇の父となり︑天皇以上の権力と栄華を手にする物語︒「源氏物語」とは︑天皇になれない皇子の物語という意味で名づけられたのである︒紫式部は︑藤原為ため時ときと藤原為ため信のぶの女むすめとの間に︑次女として生まれた︒生年はわからないが︑最近は九七三︵天延元︶年説が比較的有力視されている︒父為時は︑母は︑紫式部の幼少の頃に没したと考えられている︒紫式部の少女時代の逸話として︑弟の惟のぶ規のり︵兄という説もある︶が父の為時について漢籍を習っているとき︑傍らで聞いていた紫式部の方が理解が早かったので︑父は利発な紫式部が男の子であったらと残念がったという話が「紫式部日記」に見える︵↓教科書一八一ページ「日本紀の御局」︶︒これはもちろん少女時代の紫式部の聡明さを伝えるものであるが︑それ以上に見過ごせないのは︑学者の父がいつも紫式部を男と対等もしくはそれ以上に評価して︑それを口にも出していたことである︒それは紫式部の知的な面での自信を過剰なまでに育んだと思われる︒その性格は︑後年の宮仕え生活における対男性意識や︑知的な女房に対する強い批判精神にも連なるものであろう︒父が越前守に着任するときに任地に同行するが︑その頃から藤原宣のぶ孝たかから求婚されていたようで︑父よりも先に帰洛し︑九九八︵長徳4︶年頃に結婚する︒紫式部は二十六歳︑宣孝は四十七~八歳頃であった︒宣孝には︑紫式部よりも年上の長男隆光をはじめ︑数人の子どもがいたようである︒結婚した翌年頃に︑女子書名こ・と作は者よとくわ成か立っ・てい構な成い・︒内記事容上では一〇一三︵長の賢子︵後の大だい弐にの三さん位み︶が生まれるが︑一〇〇一︵長保3︶年に宣孝が急逝する︒このことが一つの契機となり「源氏物語」を執筆していくこととなる︒一〇〇五︵寛弘2︶年頃に︑紫式部は藤原道長の求めにより中宮彰子のもとに出仕することとなる︒紫式部は︑単に身の回りの世話をする女房としてではなく︑中宮彰子の話し相手として仕えていたようである︒し教科書(一〇六〜一一一)越教後材守をの任作期半者ばおで辞よしびて帰出京典しにて三つ井い寺でて出の家し解たこ説と、を︑作惟品規にの続構き紫成式や部も内死容んなだたどめをと想掲定載してし︑没ま年しを一た〇。一四教︵材長和の3背︶年景とをす確る説認がす定説る化こしてといたでが、︑一学〇習一九の︵導寛仁入3な︶年どのに「小しおょう右ゆ役う記立」のて記い事をた参考だにけしてま︑すその。当時も紫式部は彰子に仕えていたと考かし︑その生活に満足することはできず︑外面的には穏健で中庸でありながらも︑内面的には常に孤独と憂愁とをたたえ︑出家を望み続けているという複雑な心境にあった︒紫式部の宮仕えは︑初めの二︑三年は里居がちで︑あまり精勤ではなかったらしいが︑この期間こそ道長の庇護のもとに「源氏物語」を着々と書き進めていた時期であったと思われる︒「紫式部日記」によれば︑一〇〇八︵寛弘5︶年十一月には中宮献上本の草子作りが行われているので︑この頃までには「源氏物語」のある程度まとまった部分︑第一部︵「桐壺」~「藤裏葉」三十三帖︶か︑第二部︵「若菜上」~「幻」八帖︶を加えた部分までの完成を見たと考えられる︒一〇一一︵寛弘8︶年に︑一条天皇が崩御し︑紫式部も彰子とともに内裏を去ることになるが︑その後の和2︶年が最後であり︑従来はその翌年に︑父為時がえ︑それから間もなく没したという説もある︒

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