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資料と論考』比較で深める 夜もすがら月を見て、ながめける歌古文入門物語と日記  「大和物語」と同じ姨捨伝説に基づく章段である︒ただ「深める手がかり」でみてきたように︑二つの作品の設定にはいくつかの相違点が見られる︒大きな違いは「をば」を山へ捨てに行った人物の違い︑そして歌を詠んだ人物の違いである︒両者に異なる点があることは古くは鎌倉時代の「袖中抄」などに指摘があるが︑この違いはどこから生じたものなのであろうか︒本書の「大和物語」「姨捨」の「鑑賞」で触れているように︑「古今和歌集」の「わが心︙︙」の歌は︑それまでの姨捨伝説を踏まえたところに成立し︑それが後の「大和物語」へとつながったと考えられている︒ 「大和物語」以降も姨捨にかかわる歌や物語は︑たとえば「枕草子」「源氏物語」「更級日記」などに取り上げられるなど︑文字として定着するとともに︑人々の間の伝承として語られ続けていたことが想像される︒「俊頼髄脳」もそれらを前提としているのは間違いないところであろう︒それでは「俊頼髄脳」は︑「大和物語」とはどのような関係にあったのだろうか︒このことについて︑橋本不美男は︑「俊頼髄脳」と「大和物語」とで内容がほぼ共通するいくつかの章段を検討し︑その結果として︑「俊頼は「大和物語」を引用しなかったものと推定した︒」︵「源俊頼の古典摂取」『王朝和歌 所収︶としている︒また野口博久は「︵両者の設定が異なるのは︶「俊頼髄脳」が「大和物語」に依ったものではなく︑当時口承されていた姨母捨山伝説を採録したことをうかがわせる︒」︵「歌論書と説話文学」『日本の鑑 賞      い説話 第4巻』所収︶とし︑さらに「俊頼髄脳」に採録されている浦島伝説に言及して「これも「浦島子伝」︵古代前期の成立︶や「続浦島子伝記」九二〇︵延喜二〇︶年の成立︑に見られるような文学的粉飾が加わらない︑素朴な姿を示している︒これらを考えあわせると︑この二つの伝説が︑いずれも︑当時の一般に口承されていた説話の採録であることは確かであろう︒」︵『同書』︶と述べている︒また今井源衛も「︵俊頼髄脳」には︶「大和物語」の様な結末は書かれていないし︑また嫁の意地悪という附加的条件もなくて︑「大和物語」のそれよりもいっそう純粋な棄老伝説の形といえる」︵『大和物語評釈 下巻』︶と述べるなど︑「俊頼髄脳」が「大和物語」からの引用を否定し︑口承による採録であるという考えを示している︒そして姨捨伝説では︑口承においては捨てられる対象は父・母・親が大半を占めており︑森本茂が関敬吾の「親棄山」︵『日本昔話大成』9に所載︶を分析したものによると︑「嫁がそそのかして男の母︵養母を含む︶を捨てさせる話は︑一一〇話のうち次の四話があるにすぎない︒」︵『大和物語の考証的研究』︶とし︑「「大和物語」所載の姨捨山伝説は︑男が養母の姨を捨てる点と︑姑と嫁との対立が原因となって︑男は不承不承その養母を捨てるという点において︑一般の棄老伝説とはやや趣を異にし︑棄老伝説の中では亜流に属する︒すなわち︑この話は︑「俊頼髄脳」の話のように︑棄老の風習そのものをテーマにするのではない︒」鑑賞「冠山」に︑あえて付会しなければならなかったという︵『同書』︶と述べていて︑つまり︑森本茂が指摘するように︑「大和物語」の作者は︑「姑と嫁との対立と︑男が板ばさみになって苦しむのは︑世間に例の多いことで︑そういう現実をふまえて︑そういう話題をとりこ教科書(四八〜四九)古特定典の教地と材結にびつつくいことてなはく伝、承作され品てをいたよこりとを深示くして鑑い賞るとすもる言えたよめう︒の」︵『解古説今和を歌掲集全げ評ま釈︵し下た︶』︶。み︑棄老をめぐる男の人間的な苦悩をテーマとして︑新しく文学的な再生をはか」︵『大和物語の考証的研究』︶ることを主眼とし︑一方︑源俊頼は︑従来の棄老伝説に主軸をおこうとして「俊頼髄脳」をものしたという︑両者の姿勢の違いが相違点となって現れていると言えよう︒このようにみてくると︑「俊頼髄脳」は歌学書ではあるが︑説話的要素を持っていると言える︒説話ならば︑虚構である一面︑伝承の中で流布し︑あるいは定着している事実や事象を代弁して形成される性質を持ちうる︒たとえば具体的な期日の記載について考えてみると︑姨捨山は平安時代から月の名所として人々に知られている場所であった︒人々の意識の中には︑明るい月ならばその最たるものは中秋の名月であるということは少なからず存在していたであろう︒「俊頼髄脳」成立時点で︑「姨捨伝説」と「中秋の名月」とが絶対的な結びつきを有していたかは不明ではあるが︑少なくも俊頼の意識として︑「明るい月ならば中秋の名月」という図式を取りこむことで︑姨捨の物語を人々と共有することができ︑そう設定することで︑より印象的な話となりうると考えたのではなかろうか︒姨捨山の由来の叙述ついても同様のことが言える︒それは︑片桐洋一が「︵「俊頼髄脳」および「今昔物語集」が︶既に否定し難いまでにその名が定着していたことは︑本来はこの和歌︵注:「わが心︙︙」の歌︶がと述べているとおりである︒「わが心︙︙」の歌が「古43

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