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実、ほとんどの人々は、この世に生きること自体を、そんなに難しいこととは感じていない。確かに、現実社会を生き抜くことは、それほど容易なことではない。しかし、大多数の人間は、俗なる世間に年を経るに従って■慣れて■いくのが普通である。社会的には、人から羨まれるような地位に就いていたり、物質的には恵まれた生活を送ったりしていても、本質的にはこの世に生きることに■慣れることが出来ない■人は、想像以上に多く存在するのかもしれない。■山月記■の李徴にしても、科挙という難関を突破した数少ない秀才であった。その点では、決して恵まれない人ではない。むしろ、世間からは羨望の眼差しで見られる人物であったはずだ。だが彼は、ついに■この世に慣れることが出来ない■人であった。李徴がそうであったように中島敦もまた、■この世に生きることに慣れなかった■一人ではなかったのだろうか。彼は二十歳を過ぎた頃から喘息に苦しみ、それが原因で教職を離れ、転地療養を兼ねて南洋諸島視察へと出かける。しかし、彼の病気は快方へ向かった様子はない。残された妻への手紙からうかがえるパラオでの心境は、まさしく江南尉に補せられた李徴に似ている。そこには、自らの短命を予感した気配さえ感じられる。人は自らの短命を予感したとき、感性さえも研ぎ澄まされるものなのだろうか。冗長な表現は姿を消し、用いられる語彙は磨き尽くされ、鋭い光を放つのだろうか。中島敦の表現に、多くの人々はこの特質を感じ取り、彼の生まれた漢学者の家系にその淵源を求める。だが、彼が漢文の教師であった父親と過ごした日々は、事実上はほとんどない。また、祖父・撫山から漢文の薫陶を受けたという事実も見当たらない。彼の文体は、彼の生が生み出したものなのだろう。中島敦にとって、書くことが生きることだった。この■山月記■にしても、唐代の伝奇物語に想を得たとはいうものの、そこに描かれた人物像は、まさしく現代の知識人の姿であった。■産を破り心を狂わせてまで■詩に執着し、虎と化した後も、己の内心を文字として表出しないではおれない李徴の姿は、喘息に苦しみデング熱にうかされながら小説の草稿を書き続けた中島敦の姿に重なる。李徴は、己の醜悪な外形を旧友にさえ見せることを厭い、友のみならず、すべての人間の前から姿を消した。ところが、■名人伝■の紀昌は、俗世間のただ中に一生を過ごしながら、俗に染まることなく煙のように静かに消えて行く。弓の名人たる紀昌は、弓の名や用途さえ忘れ果て、ほうけたような顔つきのまま、それでも邯鄲の都の人々から敬愛され続けていた。中島文学が、実質的には■山月記■から始まり■名人伝■で終わったことを勘案すると、■慣れること■ができない苦悩を味わい尽くし、ついに■慣れること■なしには生き抜けない俗世間から異類の世界へと転がり落ちていった李徴に始まり、■慣れること■を強要する社会の中に存在しながら、ついに■慣れること■にも■慣れようとすること■にも価値を求めない生き方を会得した紀昌を描き出したことで、中島文学は完成の域に達したと言えるだろう。もちろん、彼がさらに生き延び、 多くの作品を発表してくれていたなら、我々の読書の楽しみは倍加したかもしれないが、それはあまりにも自分勝手な望みなのであろう。もうすでに、我々は、■山月記■から始まり■李陵■を経て■名人伝■に至る作品の中で、中島敦が見せたかったものは、すべて見教科書(四六〜五八)せてもらったと言えるからである。喘息による酸素欠乏の状態のさなか、彼の脳裏に浮かんだイメージは、弓を忘れ果てた紀昌の、愚者のようにほうけた、のどけさに満ち満ちた果てしなく広がる世界だったのかもしれない。おそらく、心臓衰弱でこの世を去った彼の表情には、苦悶ではなく穏やかな表情が浮かんでいたのではなかろうか。漢文調の整然とした文体は、ひょっとすると喘息の苦しみをさえ楽しもうとする、極力むだを廃した端正さが生み出したリズムなのかもしれない。 ■山月記■は、一九四一(昭和16)年、三十二歳頃に執筆され、一九四二(昭和17)年■文學界■二月号に、深田久弥の推挙によって、■古■■(■山月記■■文字禍■の二編)として発表された。これが、彼の実質的な文壇へのデビュー作となった。同年七月、第一作品集■光と風と夢■に収められ、筑摩書房より刊行された。 ■山月記■は、中国唐時代の伝奇小説のひとつである■人虎伝■(李景亮■)に依拠したものである。教科書本文には、教育上の配慮により漢詩に書き下し文を加えたほかは、原典との異同はない。※■人虎伝■の出典解説は「参考資料①」参照。※「参考資料③」に略年譜を掲げた。■中島敦全集第一巻■(昭51・筑摩書房)小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ山月記  5出 典     

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