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     敦 4一九〇九(明治42)年〜一九四二(昭和17)年。東京都生まれ。中学の漢文教師の父と、小学校教師の母との間に誕生した。父親は、彼が一歳のときに奈良へと単身赴任し、両親は別居状態から結果的には離婚へと進んでしまう。これは彼が五歳のときであり、その直後に第二の母を迎えた父の住む奈良へと移ったのを皮切りに、父親の転勤に従って浜松から朝鮮京城へと転校を繰り返すことになる。京城の中学に入学した後、妹が誕生するのだが、その直後に第二の母は死去する。第三の母がやって来たのは、彼が十五歳の頃であった。 しかし、この義母との折り合いが悪く、父親の大連への転勤により、敦は父の姉と暮らすことになった。この三番目の母は三つ子を生むのだが、三人の妹弟は、一人を残して誕生後まもなく死んでいる。幼少年期の体験は、人間の生涯に大きな影響を与えるという。とりわけ、自分を取り巻く環境を、自分を受け入れてくれる居心地のよい安心できる場所と感じて育った者とそうでない者とは、成人した後にも、社会との協調性の点で微妙な違いがあるそうである。も名度が低い作品である。にもかかわらず、この作品ほど中島文学の中核をみごとに示した作品はないのではないかという気がする。 ■光と風と夢■の中で、彼はスティブンソンに次のように語らせている。■この世に年を経れば経る程、私は一層、途方に暮れた小児のような感じを深くする。私は慣れることが出来ない。この世に……見ること聞くことに、斯かる生殖の形式に、斯かる成長の過程に■これは中島敦の悲痛な叫びから発せられた言葉ではなかったのだろうか。この■慣れることが出来ない■という悩みはまた、■山月記■の李徴の悩みである。俗悪な官吏の社会に身を置くことに■慣れることが出来な■かったのが、秀才を自認する李徴の悩みであった。詩人として名を揚げるという理想のために、生活の糧を得る手段として官吏という職に身を置くには、あまりにも李徴は繊細すぎた。図太い神経を持たず、ついに俗世間に■慣れることが出来な■かったのである。 ■かめれおん日記■の■私■も、教員生活に■慣れることが出来ない■一人であった。また■狼疾記■の三造も、■斗南先生■の三造も、この世の普通の生活に■慣れることが出来な■かった人物たちの姿ではなかったか。この世に生きることに慣れるなどということが、どうしてそんなに難しい問題であったのだろうか。事作者略歴・出典中島作者略歴1 出典解説山月記教科書(四六〜五八)ちろんこれは、両親がそろっていないとか、転居を繰り返したりした場合、それが常に悪い影響を与えるという意味ではない。孤児であろうと片親であろうと、転居を繰り返そうと、常に自分の置かれた環境が、自分を好意的に受け入れてくれると感じられるかどうかによって決まる。夭折した作家の一人である中島敦の作品群には、これらの幼少年期の影響が強く表れているのを感じる。もちろんこれは精神病理学的な観点から言うのではなく、作品論として中島文学の最大の魅力を形作っているという意味である。読者としては、彼の幼少年期の不幸は不幸ではなく、むしろ幸運としか思えないという逆説を感じてしまいさえする。よく言われるように、中島文学の特色を漢文調の文体とむだのない整然とした文章構造に見いだすことは、もちろん間違ってはいない。確かにこのような印象が、中島文学の最大の特色の一つである。だが、小説の内容に一歩踏み込むと、この印象論や文体論だけでは中島文学の中核を論じたことにはならないのではないかという危惧を感じるのも事実である。中島敦には、■宝島■の作者・スティブンソンの晩年を描いた■光と風と夢■という作品がある。これは■李陵■や■山月記■、■名人伝■などと比べると、数段知小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ1出典解説…教材ごとに作者(筆者)や出典に関する詳しい解説を掲げました。教材の作者および出典についての解説を掲載しました。教材の背景を確認することで、学習の導入などにお役立ていただけます。

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