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 ■山月記■(四六・1〜四七・5)と■人虎伝■の教科書掲載部分とを比較するのが問いだが、実は①は、双方の全文を読まなければ正確には答えられない。■山月記■は全文教科書に掲載されているが、を退いた■とあるから、七六〇年頃には■人虎伝■は冒頭部分のみしか示されておらず、しかも省略部分がある。そうした 制約を考慮に入れながらの比較であることに十分注意させる。■人虎伝■の全文、〜七六三年一月)が起こった時期である。および現代語訳は、二四ページ「参考資 ■人虎伝■も、それに基づいて書かれた■山月記■も、小説である。どちらもノンフィクションではないのだから、いちいち史実と突き合わせる必要はない、と言えばそれまでだが、例えば■③虢略に帰ってからの李徴の生活■を、■史実■とい うもう一つの視点を入れて見直すことは、進士となり、任官して一時地方に出、ま作品の意図やねらいを考えるうえで、興味深いヒントとなる。李徴は天宝の末年(七五六年)、進士に合格する。科挙の制度では、これは礼部による資格試験。任官するには通常三年後に行われる吏部による任官試験に合格しなければならない。したがって李徴は、死闘を繰り返した地域である。長安でその試験の準備をし、任官試験に 合格して、七五九年に江南尉に任官したものと思われる。この時期の県尉の任期は二年半〜三年なので、特別な措置が無料②」に掲げた。参考比較で深める ければ、■人虎伝■の李徴は七六二年前後には任期を全うして虢略に帰ったことになる。■山月記■の李徴は、■賤吏に甘んずるを潔しと■せず、■いくばくもなく官虢略に帰っていたかもしれない。ところでこの時期は、唐王朝の屋台骨を揺るがす■安史の乱■(七五五年十一月反乱軍は七五五年十一月に范陽(現在の北京)で挙兵すると、猛スピードで進軍し、十二月には洛陽を占拠。翌年六月には長安を陥落させる。唐軍はウイグル軍 「深めよう1」の各項目においても説明の援助を借りて戦うが、都長安や副都洛陽をめぐって両軍奪ったり奪われたりの戦いであった。完全にこの乱が終息したのは七六三年一月である。李徴は混乱の極みにあるような時期にた戦乱の地である都の周辺にある故郷に帰ったことになる。ちなみに虢略(現在の河南省霊宝市)は、洛陽と長安を結ぶ直線上のほぼ中ほどにあり、そのすぐ西側は長安の東の関所潼関。反乱軍と唐軍がそれぞれ二十万に及ぶ軍隊を動かして果たして李徴は、このような時期に官を辞して虢略に帰り、■間適■などできたのであろうか。■詩作に専念■などできた のであろうか。この大事件は、■人虎伝■にも■山月記■にもまったく触れられていない。それは偶然なのだろうか。あるいは、それには作品世界を創るうえでの何らかの意図が働いているのだろうか。興味深い問題である。◆◆◆ 2未亡人とその家族をもろともに焼き殺ししたが、■人虎伝■の李徴は、憤懣や怒りを他者にぶつけ、周囲の人を激しく■視する。そして、それが、時には供の者を■うつというような直接的な攻撃となって現れることさえある。またこれは教科書掲載部分の記載ではないが(→二四ページ「参考資料②」)、ある未亡人と懇意になり、その関係をとがめられた結果、たりもする。■人虎伝■の李徴は社会的にも許されない罪を犯す人物として描かれているのである。■山月記■の李徴には、この社会的に許されないような犯罪者の面は見られない。この点はすぐ目につく変化であろう。そして、何よりも大きな変化は、■倨傲だ、尊大だ■と言われて■憤悶と慙恚■に苦しむ気持ちを、他者への攻撃に利用することのない点である。攻撃の矢は他者へは向かわず、すべて己の内に向けられて、自分の心の中でとてつもない苦しみを増幅させていくのである。こういった李徴の不満や悩みがどの方向に向けられているかに注意させながら、■人虎伝■から■山月記■の間での李徴の人物像の変化点について話し合わせる。生は乃ち君等と伍を為さんや〔人虎伝〕教科書(六〇〜六二)小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ中島敦の翻案によって、「人虎伝」に描かれた李徴の人物像はどのように変化したか、話し合ってみよう。指導への手がかり深めよう37

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