探求 文学国語 付属教材・資料見本
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単元のねらい・と単同元時のに︑構演成じている自分にも出会うことになるのではないだろ漫画やアニメのように︑すでに一定のイメージ化がなされたものに対しては︑今日の高校生は十二分に訓練されている︒たとえそれが奇抜なストーリーであろうと︑拒絶反応を示すことは少ない︒むしろ︑テレビゲームなどで︑ヴァーチャルな世界を擬似体験している点では︑我々教師よりも順応性は高いとも言える︒しかし︑ややもすると読み慣れない表現や語彙に出くわしただけで︑興味を感じる以前に拒絶反応を示したりする︒この段階さえうまく乗り越える工夫がなされれば︑一見して難解に感じられる小説であっても︑漫画やテレビを超える︑深みのあるおもしろさを味わえることを知るであろう︒最近の高校生は個性を主張することに熱心である︒しかし︑ほかと異なることを極端に恐れているようにも見える︒だからこそ︑携帯電話やスマートフォンを用いて︑SNSで常に他者とつながろうとしているのではないだろうか︒にもかかわらず︑自身の深部を他人に明かすことを好んでいるようには見えない︒そんな彼らにとってはひょっとすると自分自身でさえ︑ひとつの他人であるのかもしれない︒学校での自分を演じ︑家族の中でもまた別の自分を演じる︒演じられた自分を︑常に演じ続けなければならない現代という時代を生きる高校生に︑教室で小説を読ませるということは︑活字という表現手段によって演じられている他人を︑イメージを通して身近に感じさせることなのではないだろうか︒教師と生徒︑生徒と生徒が︑各々の感じ方を述べ合うことを通して︑自分とは違った演じ方をしている「人間」と出会い︑それうか︒この単元を︑そんな契機としていきたい︒ 「山月記」は虎と化した人間の物語である︒もちろんこれは虚構であるが︑我々は中島敦が作り出した虚構の世界を︑うそに満ちているという理由で拒絶することはない︒いや︑むしろ夭折した作者の人生観を︑その虚構を透かして見ることができる︒虎と化した李徴という虚構の中で生み出された人物の言葉を通し︑中島敦の生々しい感覚を感じ驚く︒「人間は誰でも猛獣使いであり︑その猛獣に当たるのが︑各人の性情だ」とあるように︑人は誰しも己の内に猛獣を飼っており︑いつその性情が表に出てくるかわからないという︑非常に不安定な生き方をしている︒虚構と現実との境目が判然としなくなる︒現実が虚構の中に溶け込み︑虚構と化した現実が︑読者のイメージの中で色鮮やかによみがえる︒李徴の場合「猛獣」は︑「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」であったが︑生徒一人一人にとってそれは何であろうか︒さて︑「山月記」は︑翻案小説としても著名な作品である︒翻案    1作手法を吸収したら︑翻案作品の実作にも挑戦させたい︒「活動が単なる現代語訳と決定的に異なるのは︑それが作者の問題意識や創作性の表出ともなっている点であろう︒本単元では︑「山月記」の典拠となった「人虎伝」の冒頭部分を併載し︑「比較で深める」学習活動を設定した︒典拠から何を残し︑何を削り︑何を改変したかを分析する過程を通じて︑中島が「山月記」で表現しようとしたことの「核」があぶり出されていくことだろう︒ 「山月記」の読解︑「人虎伝」との読み比べを通じて中島敦の創のプロセス2 の手順を掲げた︒不朽の名作にして高校国語の定番小説「山月記」は︑かくも豊かな学びの可能性をあわせ持っている︒古典作品を翻案する」には︑実践例に即した翻案単元のねらい単元の構成単元の包括的なねらいと位置づけ、学習する教材の構成と特徴を示しました。ご授業に当たっての基本方針を立てる際などにご覧ください。山月記比較で深める 生は乃ち君等と伍を為さんや〔人虎伝〕活動のプロセス2 古典作品を翻案する小説Ⅱ

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