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しおん■)に参加。一九三〇(昭和5) 二十一歳。■校友会雑誌■に■D市七月叙景(一)■を発表。四月、東京帝国大学文学部国文学科に入学。一九三一(昭和6) 二十二歳。橋本タカを知り、将来を約束する。一九三二(昭和7) 二十三歳。秋、朝日新聞社を受験。二次の身体検査で不合格。この頃より喘息の発作に苦しむ。■斗南先生■■療養所にて■を執筆。一九三三(昭和8) 二十四歳。三月、東京帝国大学を卒業。卒業論文は■耽美派の研究■。四月、大学院に進む。また横浜市中区の財団法人横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)教諭となる。この頃、■北方行■を書き始めたと言われる。一九三四(昭和9) 二十五歳。二月頃、■虎狩■を脱稿。大学院中退。七月、■中央公論■に応募した■虎狩■が選外佳作となる。一九三六(昭和11) 二十七歳。四月、義母コウ死去。■狼疾記■■かめれおん日記■を脱稿。一九三七(昭和12) 二十八歳。一月、長女正子誕生するが、二日後に死去。一九三九(昭和14) 三十歳。一月、■悟浄■異■を脱稿。この年より喘息の発作が激しくなる。一九四〇(昭和15) 三十一歳。一月、次男格■■■誕生。秋以降欠勤がちとなり、転地療養を考え始める。一九四一(昭和16) 三十二歳。三月、横浜高等女学校を休職。六月、友人の斡旋で、南洋庁国語編修書記就職が内定(南方植民地で出す日本語の教科書の編集)。■ツシタラの死■■古譚■四編(■山月記■■文字禍■■狐懸■■木■乃■伊■■)の原稿を深田久弥に委託。学校に退職届を提出し、月末、単身で赴任先のパラオヘ出港。喘息やデング熱に苦しむ。一九四二(昭和17) 三十三歳。■文學界■二月号に■山月記■■文字禍■が掲載される。三月、出張のために帰国。喘息、気管支カタルのために世田谷の父の家で療養。■ツシタラの死■を短縮し、■光と風と夢――五河荘日記抄■と改題し■文學界■五月号に発表(■光と風と夢■は芥川賞候補作となる)。■政界往来■七月号に■古俗■二編(■盈虚■■年人■)を発表。第一創作集■光と風と夢■(筑摩書房)を刊行。八月、南洋庁に辞表を提出。十一月に第二創作集■南島譚■を刊行。十月中旬より喘息発作が激しくなり、十参一考月図書・ 川村湊■狼疾正伝 中旬、心臓衰弱のため世田谷の岡田医院に入院。十二月四日死去。教材・ 佐研野究幹■■や山授月記業■は研な究ぜ国に民役教材立とつなっ図た書のかを■(平■文庫■十二月号に■名人伝■が掲掲げ25ま・し大修た館。書店)教科書(四六〜五八)・ 濱川勝彦編■梶井基次郎・ 巨勢進ほか■漢文名作選4 ・ 木村一信■もうひとつの文学史■(平8・増進会出版載される。十月末頃に書き上げられた原稿が残され、深田久弥が■李陵■と題を選ぶ。・■中島敦全集 1■(昭36・文治堂書店)・郡司勝義ほか編■中島敦研究■(昭53・筑摩書房)・■中島敦文庫目録■(昭55・日本大学法学部図書館)店)・田鍋幸信編■中島敦・光と影■(平元・新有堂)・鷺只雄■中島敦論■(平2・有精堂)・田中実■小説の力■(平8・大修館書店)社)・岡田英弘■妻も敵なり 9・クレスト社)・高島俊男■李白と杜甫■(平9・講談社学術文庫)・齋藤勝■中島敦書誌■(平9・和泉書院)・■中島敦全集■(平13〜14・筑摩書房)・木村瑞夫■論攷 中島敦■(平15・和泉書院)・勝又浩■中島敦の遍歴■(平16・筑摩書房)・渡邊一民■中島敦論■(平17・みすず書房)中島敦の文学と生涯■(平21・河出書房新社)中島敦■(昭57・角川書店)文章■(昭59・大修館書中国人の本能と情念■(平 ●■山月記■■中島敦■関連小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ参考図書山月記・27

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