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既にして又曰く、吾れ詩一■を為■■らんと欲す。蓋■■し吾が外異りと雖、中■■異る所なきを表せんと欲す。亦以て吾が懐■■■を道■ひて吾が■■憤■■■を攄■べんと欲するなりと。傪復た吏に命じ筆を以て之に授けしむ。詩に曰く、■ ■るべからず。今日爪■■■■誰か敢て敵せん。当時声跡共に相高し。我れ異物となる■■茅■■■の下、君已に嘯を成さずして但嘷■■るを成すと。傪之を覧■て驚いて曰く、君の才■■行■■我れ之を知れり。而も君の此に至れるは、君平生自ら恨むあるなきを得んやと。虎曰く二儀の物を造る、固より親疎厚薄の間■■■なし。其の遇ふ所の時、遭ふ所の数の若きは、吾れ又知らざるなり。噫■■顔子の不幸冉■■有■■の斯■■疾■■■、尼■父■常■■て深く之を■ぜり。若■し其自ら恨む所を反求せば、則ち吾れ亦之れあり。定めて此に因るを知らざらんや。吾れ故人に遇ふ。則ち自ら匿す所なし。吾れ常■■て之を記す。南陽の郊外に於て嘗て一孀■■■婦に■私■■■す。其家窃■■に之を知り、常に我を害せんとの心あり。孀婦是れより再び合ふを得ず。吾れ因つて風に乗じて火を縦■■ち、一家数人尽く之を焚■■殺■■して去る。此を恨となすのみと。虎又曰く、使して回■■るの日、幸に道を他郡に取れ、再び此途に遊ぶなかれ。吾れ今日尚ほ悟■むるも一日都■■て酔はば則ち君此を過ぐるも、吾れ既に省せず、将に足下を歯■の間に砕かんとす。終に士林の笑と成らん。此れ吾が切■■■祝なり。君前■■み去ること百余歩、小■■山■■に上り下■■■視せば尽く見えん。此に将に君をして我を見しめんとす。勇を衿■■らんと欲するにあらず。君をして見て待つの薄からざるを知らんと。復■た曰く君都に還■■り吾偶■■々■■狂疾に因つて殊類と成り、災患相仍■りて逃■■軺■■に乗り気勢豪なり。此夕■■■渓山明月に対し、長復■た再び此を過ぎざらしめんとなり。則ち吾が故人を■■祖父は漢学者の中島撫山であるが、撫山は六月に亡くなっており、祖母や伯母たちに育てられる。一九一四(大正3) 五歳。二月、父が離婚届を提出し、第二の母紺家カツを迎える。一九一五(大正4) 六歳。三月、学齢期が近いため、久喜から奈良県郡山町の父の所に移る。一九一六(大正5) 七歳。奈良県郡山男子尋常高等小学校に入学。一九二二(大正11) 十三歳。朝鮮京城府公立京城中学校に入学。一九二三(大正12) 十四歳。妹澄子が生まれ、四月、義母カツが死去。一九二四(大正13) 十五歳。第三の母飯尾コウが来る。一九二六(大正15) 十七歳。三つ子の弟妹、睦子、敬、敏が誕生。敬は八月、敏は十月死去。三月、京城中学校四年修了、開校以来の秀才と言われた。四月、第一高等学校文科甲類に入学。一九二七(昭和2) 十八歳。寄宿舎に入り、氷上英■■虞■■を知る。夏、肋膜炎にかかり、一年間休学。■校友会雑誌■に■下田の女■を発表。一九二八(昭和3) 十九歳。■校友会雑誌■に■ある生活■■喧嘩■の二編を発表。一九二九(昭和4) 二十歳。■校友会雑誌■に■蕨・竹・老人■■巡査の居る風景■を発表。氷上英虞、釘本久春、吉田精一、山名文夫らと同人誌(■しむぽ山月記教科書(四六〜五八)が友人妻子を見るも、慎んで今日の事を言ふなかれ。吾れ久しく使■旆■■を留め王程を稽■■滞■■せんことを恐る。願くは子と訣■■れんと。別を叙すること甚だ久し。傪乃ち再拝して馬に上り草■■■茅■■中■■を回視し、非泣聞くに忍びざる所なり。傪亦大に慟■■き行くこと数里、嶺に登りて之を看れば、則ち虎林中より躍り出でて咆哮し、巌谷皆震ふ。後南中より回■■る。乃ち他道を取り復た此に由らず。使を遣■■■し書及び賻■贈■■の礼を持ち徴が子に訃■せしむ。月余にして徴が子虢略より京に入り、傪に詣■■りて先人の柩■■■を求む。傪已むを得ず具■■■に其伝を疏■し、遂に己が俸を以て均給す。徴が妻子飢凍を免る。傪、後、官兵部侍郎に至る。一九〇九(明治42) 五月五日、東京市四谷区(現在の東京都新宿区)の母の実家で生まれる。父は難関であった文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)出身で、銚子中学校の漢文教師。母は東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)を卒業した小学校教員。一九一〇(明治43) 一歳。この年の早い時期に父母は事実上離婚状態となり、父と別れ、母のもとで養育される。四月、父が奈良県郡山中学校に転勤。一九一一(明治44) 二歳。八月、父の実家の中島家(埼玉県久喜町)に引き取られる。小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ(国民文庫刊行会編『国訳漢文大成 晋唐小説』)③中島敦略年譜文学部第十二巻 26

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