探求 文学国語 付属教材・資料見本
26/76

(四二〇〜四七九)の■斉諧記■に■師道宣■と題する小話があり、そこには■ある若者が発狂して虎になり、桑の葉摘みの娘を食べて、その娘のかんざしと腕輪を山石の間に隠した。■とある。虎はその後人間に戻り、あるとき同僚たちに虎であったときのことを語るが、その中に家族を食われた人がいたため訴えられて獄中で餓死する。ここまで骨子となる事項が入っていることを考え合わせれば、■人虎伝■は■唐代伝奇小説を淵源とする■という定番の言い方は、■人虎伝■は■六朝志怪小説を淵源とする■と改めることができる。そこで中島敦はどの本に拠って■山月記■を書いたのかということになるが、①は■偶因狂疾成殊類■の七律の詩がないので検討の対象外。②と③はどちらも可能性がある。ただし、②は和刻本がなく、中国出版のものでしか見ることはできない。③の■人虎傳■は鹽谷温訳注■國譯漢文大成 庫刊行會)に収められて、手軽に読むことができる。■國譯漢文大成■は■國譯■(書き下し文)を主文にして、巻末に返り点を施した原文を載せるという体裁で、現代語訳はない。中島敦の遺された蔵書には、本来父の持っていた漢籍と思われるものの中にも①、②はない。中島自身の漢文関係の蔵書は、■高青邱詩醇■と■宋元明詩選三百首■の和刻本のほかは、■國譯漢文大成■の■韓非子・商子■と■春秋左氏伝■、■漢文叢書■(有朋堂書店)の■戦国策■と■荘子■、それに■漢籍國字解全書■(早稲田大学出版部)の■老子・荘子・列子■などの明治末期から大正の後半にかけて出版された日本の本である。いずれも書き下し文を主文にして返り点を施した原文晋唐小説■(大9・國民文  ■  ■少■■くして博学、善く文を属■■■す。弱冠州■■府■貢■■に従ふ。時※本教材の読みと一部異なる前■■むべからずと。傪怒りて曰く我は天子の使にして後■■騎■■■極めて多し。山沢の獣能く害をなさんやと。遂俄■■に虎身を草中に匿■■し、人声にて言つて曰く、異なる■■為さんやと。其寮■■友■■咸■な之に側目す。謝■■秩■■に及び則ち退き帰りて間■■適■■し、人と通ぜざること歳余に近し。後衣食に迫られ乃ち東呉楚の間に遊び、以て郡国の長吏に干■■む。楚人其声■を聞くこと固■■より久し。至るに及び皆館を開いて以て俟■つ。宴遊歓を極めて将に去らんとすれば、■悉■■■く厚く遺■■りて以て其囊■■槖■■を実■■す。徴呉楚に在り且■■に歳余ならんとす。獲■る所の饋■■■遺■■甚だ多し。西虢略に帰り未だ舎■■に至らず。汝■■墳■■の逆■■■旅の中■■に於て忽ち疾■■■を被りて発狂し、僕者を■捶■つ。其■苦■■■に勝■へず。是に於て旬余疾■益■■■■甚■■■し。■何■■■もなく夜狂走し其の適■く所を知らず。家■僮■■其の去■■を跡■■ねて之を伺ふ。月を尽して徴見■■に回■■らず。是に於て僕者其乗馬を駆り其囊槖を■■■へて遠く■■■れ去る。明年に至りて陳郡の袁傪、監察御史を以て詔を奉じて嶺南に使■■■し、伝に乗りて商於の界■■■に至り、晨■■■に将に去らんとす。其駅吏白■■して曰く、道に虎あり暴にして人を食■■ふ。故に此に途■■する者は昼にあらざれば敢て進むなし。今尚ほ早し、願くは且■■らく車を駐■■め、決してに駕を命じて行く。去りて未だ一里を尽■■さざるに果して虎あり、草中より突■■りて出づ。傪驚くこと甚し。かな幾■■んど我が故人を■傷■■■んとせりと。傪其音■■を聆■くに李徴なるものに似たり。傪昔徴と同じく進士の第に登り、分極めて深し。別れて年あり、忽ち其語を聞き既に驚き且つ異■■■んで測るなし。遂に問ひて曰く、子を誰とかなす、豈■■故■■人■■隴西子にあらずやと。虎呼吟すること数声、嗟■泣■■する状■■の若■■し。已にして傪に謂つて曰く、我は李徴なりと。傪乃ち馬より下りて曰く、君何に由②■人虎伝■山月記教科書(四六〜五八)を載せたり、訓点付きの漢文に注釈を施したりした体裁のもので、これらの本には中島の筆跡で種々の書き込みが見られる。ことに次作として予定していて果たせなかった■韓非子■を題材とする小説の資料と思われる■國譯漢文大成■の■韓非子■には、多くの興味深い書き込みや小説の章立てを思わせるような番号が細かに記されている。こういった状況から考えると、書き込みや現物が残っていないので確定はできないが、中島の使った■人虎伝■も、①②③の中国出版の諸本ではなく、手軽に購入できた鹽谷温訳注■國譯漢文大成 晋唐小説■(大9・國民文庫刊行會)であると考えるのが自然であると思う。中島に常日頃中国出版の本を購入するとか、いつも求めて線装本を手元に置いておくとかいう習慣はなかったようなので、祖父や伯父が漢学者で父が漢文の教師であっても、中島敦が読んでいた漢文関係の本は特殊なものではなかったはずである。したがって、■人虎伝■と■山月記■の比較というのは、この■國譯漢文大成■の■書き下し文■と■山月記■の比較をする作業になる。〈書き下し文〉(■国訳漢文大成■より)隴西の李徴は、皇族の子にして、虢■略■■に家す。徴に名士と号す。天宝十五載春、尚書右丞楊元の榜■■下■に於て進士に登第す。後数年、調せられて江南尉に補す。徴性疎■逸■■、才を恃■■んで倨■■傲■■なり。跡を卑僚に屈する能■■はず。嘗に鬱々として楽■■■まず。同舎の会既に■酣■■■なる毎に、顧みて其群官に謂つて曰く、生■■は乃ち君等と伍を小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ24

元のページ  ../index.html#26

このブックを見る