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理を表す運命観はこの作者自身の人生から生まれた一つの哲学あるいは諦観なのかもしれない。②については、■考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない■(五四・1)と李徴自身が述べているように、変身の理由としては最も有力なものである。また、①で提示された生の不条理を条理に直していこうとする意図をここに見ることができるのかもしれない。李徴の心の中で、■臆病な自尊心■と■尊大な羞恥心■が肥大化し、それを制御できなくなった結果、変身したというのがここに示されている内容である。しかも、この肥大化は第五時限「語句の解説」でも触れたが、悪循環によって無限に続いていくものとして書かれている。すなわち、■臆病な自尊心■と■尊大な羞恥心■が肥大化し、それによって李徴は■世と離れ、人と遠ざか■(五四・11)る。世間と隔絶することで■憤悶と慙恚■(同)を感じる。その■憤悶と慙恚■が■臆病な自尊心■と■尊大な羞恥心■をさらに肥大化させていくというわけなのである。普通は■臆病な■は■羞恥心■と同じく劣等感を表出したもの、■尊大な■は■自尊心■と同じく優越感を表出したものであろう。これらが入り交じること、つまり、劣等感と優越感が心の中で混在化し、肥大化していくところに李徴の悲劇はあったのである。ここに作者の人間観を見ることもできる。人間は制御すべき猛獣(恐ろしい心・欲望)を心の中に潜ませている。そして猛獣を制御できなくなった人間は破滅するしかないという見方である。この人間観は生徒たちにも理解しやすいものであろう。自身の心の中にある猛獣について考えさせることは、青春を生きる生徒にとって意義のあることであると考えられる。「学習の手引き・発展7」はこの意味で設けたものである。なお、ここの部分のキーワードの一つである■臆病な自尊心■は、■山月記■執筆以前から作者が持っていた問題意識を表す言葉である。作者の初期の短編■狼疾記■には、■今に至る■治りやうもない、彼の■臆病な自尊心■も亦、この途を選ばせたものの一つに違ひない。人中に出ることをひどく恥づかしがるくせに、自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が、才能の不足を他人の前にも自らの前にも曝し出すかも知れない第一の生き方を自然に拒んだのでもあらう■とある。③については、②と同じく不条理を条理に変えようとする意志が見られる。また変身の理由を外に求めず、自分の内面に求めるという点でも②と共通している。人間性、妻子への思いやり、愛などいくつかの言葉で表すことができる人間にふさわしい心を持っていなかったから人間でなくなったというのは、わかりやすい理由であり、読者は終盤の李徴の自■を素直に受けとめるであろう。当然、生徒たちにもわかりやすい理由である。ただ、人間にふさわしい心というのは誰が規定するものなのか。■人道に外れた■といった言い方でも表されるこの概念については、■人道■とは誰が定めるものか、という根本的な問題がつきまとうのである。さらに人間としての心を持たない面、人道に外れた面は誰しも多かれ少なかれ持ち合わせて当然のものであり、ひとり李徴に特徴的なものではない。なのに、なぜ李徴だけが虎になってしまうのか、という問題は解決されない。しかも李徴は第一段落で■妻子の衣食のためについに節を屈して■(四六・8)とあるように、根本教科書(四六〜五八)       000   的なところでは妻子への思いやりを示しているのである。第六段落でも、詩のことよりも後にはなるものの、■道塗に飢凍することのないように■(五六・8)と妻子の世話を袁傪に依頼しているのである。ここには作者の迷いが示されているようである。作者の芸術観といってもいいかもしれない。芸術至上主義という考え方がある。芸術が何よりも崇高ですばらしいものであり、個々の人間の生よりもはるかの高みにあるものであるという考え方である。これに対して作者は肯定も否定もできないでいるようである。李徴は詩という芸術を求め、それに執着し、それによって虎にもなった。虎になってもなお詩に執着し、詩人になれなかった過去を■空費■と呼んで後悔している。この李徴の態度を肯定することができず、最後に妻子への愛の欠如というテーマを述べざるをえなかった作者の心は、芸術至上主義への懐疑をここに表している。しかし、芸術至上主義を肯定はしなくとも、否定もできないのである。李徴の詩への執着は、そのまま作者の小説への執着であると考えることもできる。作者の人生は不遇なものであった。小説家として認められるかどうか、という瀬戸際で芥川賞も逃し、自身の健康も損ね、寡作な小説家としての人生を閉じている。この人生の中で必死に執着したところのものにいったい何の意味があったのか、自分には人間としての心が欠けているのではないかという危惧が作者の中にあったと考えてもいいのかもしれない。李徴の才の高いことを示す言葉はさまざまなところ山月記謎二 なぜ李徴は一流の詩人になれなかったのか小説Ⅰ小説Ⅰ小説Ⅱ21

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