探求 論理国語 ダイジェスト版
42/68

文化とは、芸術・芸能・哲学・思想・道徳・宗教・祭さ祀しなど人間の精神的活動の所産のことで、当然科学も文化の一つである。少なくとも十九世紀半ばまで科学は自然哲学であり、自然が投げかける謎に挑戦する純粋な文化の営みであった。二十世紀に入って科学の原理が技術に生かされるようになり、科学は文化という枠を超えて物質的所産である文明の建設にいそしむようになった。科学は制度化・軍事化・技術化・商業化を通じて変容したのである。それによって、国家というスポンサーの意向を斟し酌しするようになり、軍事体制に組み込まれ、生産に役立つことが奨励され、知的財産を蓄積すべく運命づけられた。これらが課している限界(言葉を換えれば大きな期待)によって、「好奇心の趣おくまま」の自由を楽しんでいた科学は息苦しい状態になりつつある。私は、科学が再び文化のみに寄与する営みを取り戻すべきと考えている。壁に飾られたピ1カソの絵のように、なければないで済ませられるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である。世の中に役立とうというような野心を捨て、自然と戯れながら自然の偉大さを学んでいく科学でよいのではないだろうか。むろん、経済一辺倒の現代社会では、そんな原初的な科学は許されない。社会もムダと思われるものに金を投ずるのを忌避するからだ。それが「役に立つ」科学とならねばならない要因で、科学者もセールスマンのように次々目新しい商品を用意して社会の要求に迎合していかねばならなくなる。それを逆手に取って、あたかも世の中を牛耳っているかのように尊大に振る舞う科学者すら登場するようになった。もむゃく池いけ内うちとる 了さ科学と市民評論解析A一九四四(昭和19)年~。天文学者・宇宙物理学者。兵庫県生まれ。本文は「科学の限界」(二〇一二年刊)によった。評論解析 A-1ん5い     解析マスター① +解析マスター⑥主要な見解をつかむ指示表現巻頭1 評論を読み解く解析マスター401510評論解析 〈Ⅰ部〉34

元のページ  ../index.html#42

このブックを見る