探求 古典探究 ダイジェスト版
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〇  本紀〇  世家〇  列伝なく、生き生きとした「人物」の描写を連ねることによって、歴史を再現している。「人物」は英雄や豪傑、君子のみではない。殺し屋・侠き客か・道化者など、実に多様である。ただし、そうした分野の「人物」でも、埋もれさせずに未来に伝えるべき「人物」が選ばれている。構成(全一三〇巻)・本ほ紀ぎ・表ひ・書し・世せ家か   八 三 七 一 一巻〇〇二〇…巻巻巻巻…………………………暦帝諸世せ帝法王侯王系け・・のの表経記記諸・済侯録録年・以表儀外な式のど・人制々度のの記記録録など・列れ伝で人物の事跡を記した「本紀」と「列伝」に代表される構成なので、「紀伝体」と称される。この形式は以後の「正史」にも引き継がれた。「編年体」と並び称される歴史書の構成形式である。「五帝本紀第一」~「孝武本紀第十二」までの帝王の記録。前半は「周本紀第四」などのように王朝別に本紀とし、その中で王朝の帝王を順に扱っている。「秦し始皇本紀第六」以降は、帝王個人で一つの本紀を立てている。●項こ羽う本紀第七 …項羽は西楚その覇王と称したが皇帝の位には就いていない。本来ならば「本紀」に入る人物ではないが、司馬遷が帝王に匹敵する人物と判断して入れたものである。倒秦に際しての項羽と劉り邦ほの連帯、次いで確執、そして死闘が劇的に描かれる。ことに「鴻こ門も之の会」と「四面楚そ歌か」の場面の描写は「史記」中の白眉である。●高祖本紀第八 …田舎町の顔役から「呉太た伯は世家第一」~「三王世家第三十」までの諸侯の記録。「世家」に描かれる諸侯は春秋・戦国期の諸国の王と漢王朝になってから封じられた王とに大別できる。「世家」は「史記」特有の部立てである(以後の正史で「世家」を設けるのは「新五代史」のみ)。中央集権国家が確立されれば独立性の強い諸侯は存在しないとの立場による。●孔こ子し世家第十七に入れるのも「本紀」の項羽と同じ理由。孔子は諸侯に匹敵する。孔子の一生を、孔子を取り巻く政治状況や「論語」の言葉を交えて描く。「論語」を読むときには、その背景を知るうえで➡五三ページ欠かせない資料となっている。●留り侯こ世家第二十五 …留侯に封じ官)になり、三十代前半には西方(四川省)や南方(雲南省)に赴いている。三十六歳のとき父が亡くなり、遺命として歴史記録の執筆を託される。三十八歳で太史令になると、宮中の資料を自由に読むことができるようになり、四十二歳から本格的に「史記」の執筆に取りかかった。四十八歳のとき、匈き奴どと奮戦して捕虜になった李り陵りう(郎中のときの同僚)を弁護し、武帝の怒りに触れて宮き刑けに処された。しかし、「史記」を書き終えるのが自分に課された使命であるとし、生き延びて宦か官がとなり、中ち書し令れい(宮中の文書を扱う)となって、ついに「史記」を完成させた。十」までの帝王・諸侯以外の人々の記録。通り一遍の道徳観では割り切れない多様な人間が描かれる。「史記」の中では最も大きな部分を占める。「太史公自序」は司馬遷自身の自伝である。●伯夷列伝第一の武王の戦いをいさめ、首し陽よ山で餓死したという話を記し、平和を愛し、廉潔 …孔子を「世家」「天道是か非か」という問いを発する。この上ない人間がなぜ報われないのか、●廉れ頗ぱ藺り相し如じ列伝第二十一 …強国秦に対して綱渡りの対応を取る趙ちの重臣廉頗と藺相如の確執と信頼を描く。●刺客列伝第二十六いったん義に感じて殺しを請け負うと「伯は夷い列伝第一」~「太史公自序第七 …伯夷と叔し斉せが、周➡一四〇ページ …殺し屋の記録。55ょうょうゅうんうううんんついょいいんくょいんんょううくいんんょゅういくゅうょうちりょうょうゅうゅうゅくょうょう左ページ左ページ左ページ教科書ではおなじみの教材として取り上げられることの多い「史記」について、作者・司馬遷、ならびに作品の構成と主要な巻の内容の紹介を掲載しました。単なる出来事の推移の描写にとどまらず、さまざまな「人物」が生き生きと描き出されている点に「史記」の魅力があることが理解できます。「史記」写本司馬遷

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