探求 古典探究 ダイジェスト版
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「長恨歌」と紫式部白詩受容の展開コラム2紫式部は、中宮彰し子しが興味をもったので、『*白氏文集』の中の「新し楽が府ふ」をひそかに進講していたと、『紫式部日記』に記しています。女は漢籍など学ぶものではないという通念があった王朝人にとっても、白居易だけは特別な存在であったようです。白居易は、唐代の詩人の中でもとりわけ、日本で崇敬されました。白詩(白居易の詩のこと) が日本人に好まれたのは、平易明快であることがその第一の理由に挙げられますが、白居易の表現した世界に、日本人の心を打つものがあったからこそ、日本における白詩受容が展開していったと言えるでしょう。『白氏文集』の中でも、特に「長恨歌」は日本文学に大きな影響を与えました。「長恨歌」は、白詩の伝来した平安時代の多くの作品をはじめとして、中世では『太平記』、近世では『好色一代男』など、長きにわたって享受されていったのです。ここでは、「長恨歌」の影響を受けた平安文学の中で、『源氏物語』への影響を具体的に見ていきましょう。『源氏物語』では、冒頭の「桐壺」の巻に「長恨歌」の影響ょう愛あの描写には、玄宗皇帝の楊貴妃への寵愛ぶりが重ね合がとりわけ強く見られます。桐壺帝の桐壺更衣への寵ちわされています。また、楊貴妃の死後に悲しみにくれる玄宗を描き出した「長恨歌」の詩句を用いて、更衣を喪うった後の帝みの悲嘆が表現される場面もあります。までが政治的権力をもつにいたった楊貴妃とは異なり、更衣は政治的には非力な、はかなげな女性として描き出されました。「桐壺」の巻は、「長恨歌」の「男女の愛と別れの悲劇」という一面を重視して取りこむことによって、帝と更衣の愛の悲劇を演出したと言えるでしょう。「長恨歌」はその後も、悲劇的な愛を謳うう名作として、長く日本で愛好されていったのです。を入れていたと伝えられていますが、『源氏物語』にはそうした諷諭詩も数多く引用されています。中宮への「新楽府」進講の挿話と併せて、紫式部が白詩の世界の意図を深く理解していたことがうかがえます。(吉井美弥子)ただし、玄宗の寵愛を受けたことによって、その一門さて、白居易自身は政治的な主張をこめた諷ふ諭ゆ詩に力かどうた―んいょうしな*『白氏文集』の中の「新楽府」/楽府(主に漢代の、民意を反映した歌謡)を踏まえ作られた詩。『白氏文集』の詩は「諷諭」「閑適」「感傷」に分類されるが、「新楽府」は「諷諭」、「長恨歌」は「感傷」の部類に所収。53113 コラム 2

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