探求 古典探究 ダイジェスト版
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比較で深める1北宋その蘇そ軾しは、漢の参謀・留侯(張良)と、楚その参謀・范は増ぞについて、それぞれ次のように論じている。二人の参謀 観ル夫か 高            6      5        り  戦             ―ゑん   3 ―  うんう  んん1うういんくうゃんょくニ ト テ い テ 7バ 祖之の以勝チシ、項籍之百勝シ而而欲ス自ラ王タト、高祖発シ怒リヲ、見あ於強不ル能ハ忍ブ之所ゆ不ざ能あ忍ブ之間ニ而 ル たハ ランルニ  ホ テ  5るがるうヲ軽か用ヰ其ノ鋒ほ。高祖ハ忍ビ  シク  レ らはル らズンバ の み ル ル 已矣。項籍ハ唯た不ず房教フ之ニ也な。当タ気。非あ子房ニシ  81の留侯江こ 蘇そ省徐州市沛は県けの東南)の地に封2高祖 3項籍 4鋒 リテ6淮陰 5弊 7斉 8詞色 蘇軾 文章軌範 文」の文章を集めたもの。ぜられたので「留侯」と称された。五四ページ注8参照。兵。深める手がかり「鴻門之会」での張良の言動と「留侯論」での指摘を踏まえて、張良は漢軍においてどのような役割を果たした参謀であったのか、説明してみよう。一〇三六~一一〇一。北宋の詩人・文章家。七巻。謝し枋ぼ得との編。唐宋の「古張良、字は子房。劉り邦ほに留(今劉邦。五三ページ注参照。項羽。五三ページ注3参照。兵器の鋭い切っ先、転じて精鋭の疲れ。淮陰侯韓か信し。二二ページ参照。今の山東省一帯にあった国。言葉と顔色。所以ノ敗レ者ヲ、詞色ニ。〔文章軌き範はん〕留 侯 論 ク 在ル能よ忍ブ与と能ハ忍ブ。是こ以も百こヲ つテ れヲ之こ、養ヒ其ノ全鋒ヲ而待ツ其ノ弊ヲ。此こ子淮わ陰い破リ斉せんノ いヲ リテ 由よ是ニ観レ之ヲ、猶な有リ剛 レ セン 其そ誰カ全ウ之ヲ。ざな字あは子し瞻せ。唐宋八大家の一人。ゅう史伝Ⅱ64 4 ノ 248 ダ 

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