探求 古典探究 ダイジェスト版
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平家物語に関わる人々*俊寛 平家打倒の陰謀が露見し、共謀者とともに島へ流された。後に恩お赦しが行われたが、俊寛だけは許されず島に一人残された。能や浄瑠璃・歌舞伎として演じられる。木曽義仲義仲は源頼朝の活躍に触発され、木曽で挙兵した。武芸に秀で、平家に連勝・圧勝しつは政治に疎く、軍政に失敗して京の人々の反ようとした後白河法皇も頼朝に義仲追討の命を下した。義仲軍は頼朝が差し向けた義経らの軍に宇治川で敗れ、義仲自身は粟津で敗死清盛の娘。壇の浦の戦いで息子の安徳天皇とともに入水するも生き残り、出家した。「建礼門院右う京大だ夫ぶ集」(➡一八四ページ)は建礼門院に仕えた女房が書いた歌日記的私家集である。▼義仲・義経・範頼の一一七八  二一一七九  三一一八〇  四一一八一一一八三一一八四  一一八五一一八七一一九一寿じ ゅ 永えい二元げん暦り二ゃく文ぶん治じ三建けん久き二ゅう安あ徳と天皇誕生。以も仁ひ王お、平家追討の令り旨じ。らの平重し盛も、病死。清盛、後ご白し河か法ほ皇おを幽閉。安徳天皇即位。源頼よ政ま挙兵。宇治で敗北。清盛、福ふ原はに遷都。源頼よ朝と、伊い豆ずで挙兵。①石橋山の戦い。②富士川の戦い。清盛、都を京に戻す。平重し衡ひ、奈良を焼き討ち。清盛死去。③倶く利り伽か羅ら谷だの戦い。④篠し原はの戦い。平家、安徳天皇を奉じて都落ち。西国に向かう。木曽義仲、京に入る。義仲、後白河法皇を幽閉。⑥一の谷の戦い。⑦屋島の戦い。*建藤ふ⑧礼壇原わ門の俊と院浦成な徳の「子戦千せ死い載ざ去。集(」諸撰せ説進しあ。➡りP.80)。かんじょう(7)灌頂➡P.8489➡P.88歴史と軍記*建礼門院徳子 つ大隅京に入ったが、義仲源氏武将進撃路進撃路を見てみよう。ょうきょうの⑧壇の浦壱岐豊前筑前筑後肥前肥後薩摩三五いんりしじんんわらのにらげもりくらさりうとちわらううりげくん543んゃい伯備67隠岐出雲石見備後安芸長門周防伊予土豊後日向2379 構成と概観「平家物語」11義⑤仲宇、治粟あ川の津づ戦でい敗。死。⑤宇治川の戦い 源×源1184年1月都の木曽義仲軍を源義経・範のり頼より軍が破る。⑥一の谷の戦い 源×平1184年2月源義経、鵯ひよどり越ごえを駆け下りて平家の本陣を急襲。平家敗走。⑦屋島の戦い 源×平1185年2月源義経、屋島で平家軍を破る。那な須すの与よ一いちの活躍。⑧壇の浦の戦い 源×平1185年3月源平最後の戦い。平家軍敗れ安徳天皇と平家一門が入じゅ水すい。し感たを。買う。彼を重用し

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