探求 古典探究 ダイジェスト版
15/68

平家の盛衰を描く冒頭「祇ぎ園お精し舎じ」は、諸行無常・盛じ者し必衰める。物語前半は、平清き盛もを中心に、平家という仏教的な無常観の表明で物語を語り始が描かれる。後半は、清盛死後、各地で蜂起の興隆・栄華と、その運命が傾き始める過程亡するまでの過程が描かれ陸中、木き曽そ義よ仲なや源した源氏との戦に敗れた平家が、都落ちし滅者、建け礼れ門も院い徳と子こ(清盛の羽後娘)の述懐羽前が後日年表談として最後に語られている。「源氏物語」の書名の姓を賜った人が主人公の物語の意。皇族に生まれたが臣籍に下り「源」「源氏物語」の成立~一〇一一年)の中宮彰し子しに出仕し作者紫式し部ぶが一い条じ天皇(九八〇年四巻にわたる物語の成立にはかなりのていた十一世紀初頭に成った。全五十期間を要し、現行の巻序どおりに執筆されてはいなかったと考えられている。「源氏物語」の構成と展開る。内容から正編を二つに分け、全体氏没後の子孫について語る続編から成を三部構成で捉えることが多い。第一部は、光源氏の誕生から、女お君ぎ語る。第二部は、さまざまな問題が問たちとの恋を経て栄華を極めるまでをれる。第三部は、光源氏の子孫の世代い直され、光源氏の孤独な晩年が描かの男女が織りなす人間模様を描き出す。●平家物語地図●第一部よって臣籍に下り、「源」のまれた御み子こは、父帝の判断にいまれな美貌から、世の人は姓を賜った。優れた資質と類る。桐壺更衣没後、失意の帝彼を光源氏と称するようにないるといわれる藤ふ壺つ宮みであに入じ内だしたのが、更衣に似てようになる。幼い頃に母を亡り、帝は藤壺宮を寵ち愛あするを正妻としたが、二人の仲はしっくりせず、光源氏はくした光源氏は、元服して左大臣の姫君である葵上う若き日の光源氏は、かなえてはならない藤壺宮への藤壺宮への思慕の念を募らせていった。いく。藤壺宮に似た少女(紫上。後に光源氏最愛の妻と思いを抱え、六ろ条御み息や所どら女君たちとの関係を重ねて壺は、表向きには帝の御子となる男子を出産。また、葵なる)を見み出いすが、ついに藤壺宮と密通し、その結果、藤急死する。その後、政治的苦境の中、光源氏は都から離上は六条御息所の生霊にとりつかれ、男子(夕ゆ霧ぎ)出産後、光源氏は政治的実権を握り、藤壺との罪の子は即位すれ、須す磨ま、明あし石で日々を過ごす。時を経て、都に帰ったる。光源氏は准じ太だ上じ天皇となって栄華を極めた。海を越える『源氏物語』  古典世界ビュー|⑥小倉百人一首▼百人一首に詠み込まれたコラム2▼「源氏物語」を彩1 桐き壺つ3 空う蝉せ4 夕ゆ顔が5 若わ紫7 紅もの葉賀が17 絵え合あ6 末す摘つ花は16 関せ屋や9 葵あ8 花は宴え一一三二西 暦一一五九一一五六一一六八一一六七一一七一一一七七高こま麗う人どの観相(源氏物語画が帖じょう)はきかむらさきもぎくしみじわせおいなのあおいのずらょうたるがりかましらじの『源氏物語』が世界中でさまざまな外国語に翻訳されとがわかります。いくつか原文のニュアンスとはやや異場合がありますが、英語・ドイツ語・フランス語・ロシ述語が明確に示されている分だけ、理解しやすいというなる点はありますが、英訳の方が、敬語もなく、主語とているのを知っていますか。全訳、部分訳といろいろなこの物語は世界各国で翻訳されているのです。印象を持った人もいるかもしれません。英訳では、「若紫」という巻名は「ア語・中国語からスペイン語・フィンランド語などまで、ンステッカーの英訳一九七六年)ンダー)」、「光源氏」は「れています。私たちが読んでいる古文の印象からすると、例えば、アメリカの日本学者エドワード・G・サイデでは、桐き壺つの巻の冒頭部分は次のように訳されています。イデンステッカー訳は、主観的な解釈を抑えた、原典にこうした表現には違和感を覚えるかもしれませんが、サー訳が刊行されるより四十年ほど前には、イギリスの東忠実な訳として定評があります。このサイデンステッカる、第一級の身分ではない女性がいた。」となります。語』を英訳し、好評を博しました。洋学者アーサー・ウェイリーがかなり大胆に『源氏物直訳すると、「ある御み代よに、帝みがほかの誰よりも愛すと照らし合わせてみましょう。英訳では、「女御、更されていくきっかけにもなりました。その結果、海外にこれらの英訳が出されたことが、他の外国語へと翻訳Ⅰ部「光源氏の誕生」の原文(一〇〇ページ1〜4行)衣」という詳細な解説が必要となる語を省略する一方で、おける『源氏物語』読者が増え、『源氏物語』は今や世「時めく(帝の寵ち愛あを得て、栄える)」という語を、「帝がほかの誰よりも愛する」と説明的に言い換えているこ界の古典文学の一つともいわれるようになっているのです。た。定家の別荘があった地名から、このように呼ばれています。恋や秋『小お倉ぐら百人一首』は鎌倉時代初めに歌人である藤ふじ原わらの定さ家いが撰せ定てしましの歌が多く、掛詞や序詞を用いた叙情歌が多く撰えらばれています。百人一意識をもって編まれており、晩年の彼の理想が感じられます。首は公的な勅撰集ではなく個人の私撰集です。余情を重んじる定家の美歌の伝統を担い、血縁・師弟間で伝授していましたが、百人一首を伝授百人一首が普及した端緒は室町時代にあります。当時は主に公く家げが和歌の入門書として位置づけられていきました。江戸時代にかるたとしてされた連歌師の宗そう祇ぎは百首に解説を加えます。その結果、百人一首は和遊ばれるようになった百人一首は、現代でも広く親しまれています。Inacertainreigntherewasaladynotoftheanyoftheothers.firstrankwhomtheemperorlovedmorethanかどょうLavender(theshiningGenji」ラベと訳出さ(吉井美弥子)義よ経つらが登場する陸奥。平陸中家一門の数少ない生存保ほ元げ元天て承し二仁に安あ二平へ治じ元ょう承じ安あ元治じ承し元むらさきかる光ひ源氏在世時代を語る正編と光源平忠た盛も、昇殿を許される。平治の乱。保元の乱。清盛、病を得て出家。平清盛、太だ政じ大臣となる。清盛の娘、徳子が入じ内だ。「平家物語」は、多くの合戦場面や悲劇を含む語り物として、盲目の琵琶法師によって語り伝えられた。その一方で、読み物としても享受され、語り・書物語が形成された。和漢混交文による和文体と漢文体とを軍記物語対句や七五調、口語や場面ごとに使い分け、盛り上げている。この俗語を交えて雰囲気をには「語り」という行為ような表現の成立背景がある。古典に登場する色 る色とその名前赤字の巻は本書に掲載▼巻名地図歌枕を探してみよう。和歌と俳諧ょうょうたいらのみなもとのょうしのゅんぼのかど帝みと桐き壺つ 栄更華衣にと至のる間まにで石見の生安芸恋と罪ょうみきちんのたんんんいうんんりだ事 項ゅいいにんいくんんいんねしんいのたゃよりしかゃいかうりだすえいゅじやいりめえらじききこつまつかんつぜすもさおとむえなきつみりぼうおおかなると だえんいいぼりょうぼのょうころくじょうのんなょうゅん歴史と軍記年 号巻1  三物語長門⑧壇の浦壱岐周防豊前筑前筑後肥前豊後肥後日向薩摩大隅2 帚は木ぎ28 野の分わ26 27 常と篝か夏な火び玉鬘十帖じょう25 蛍ほ24 胡こ蝶ち23 初は音ね22 玉た鬘か10 賢さ木き21 少おめ女20 朝あ顔が19 薄う雲ぐ18 松ま風か15 ●よ生う14 澪み標つ13 明あし石12 須す磨ま11 花は散ち里さ陸前佐渡能登越後陸奥③俱利伽羅谷加賀越中上野下野隠岐④篠原越前飛驒信濃武蔵下総常陸伯耆因幡出雲美作備前丹後但馬若狭近江丹波摂津和泉美濃尾張甲斐相模上総安房①石橋山備中備後伊賀山城河内大和播磨淡路三河伊勢遠江駿河伊豆②富士川讃岐阿波志摩⑤宇治川紀伊⑥一の谷伊予土佐⑦屋島 主な歌枕一覧小倉山の定家(下しも村むら観かん山ざん筆「小倉山」)32 梅う枝が33 藤ふ裏う葉ば31 真ま木き柱ば30 藤ふ袴ば29 行み幸ゆ※光源氏の若き日の恋人である夕顔の遺児、玉鬘をめぐる物語。98121 和歌78琵び琶わ法師の語り物“TheTaleofGenji”(112ょうょう(「古典世界ビュー」「コラム」「QR」)文章理解に役立つ古典常識を解説した「古典世界ビュー」「古典世界ワイドビュー」を採録。古文への興味が広がるコラムや、作品に関する資料が見られるQRも充実。▶P30-31へ教科書紙面上の二次元コードを読み込むことで、学習の参考となるデジタル資料を見ることができます。共通のテーマ・内容を持つ複数の文章を読み比べることは、共通点や相違点に思いをめぐらせ、文章をより深く、正確に読解することができます。古典常識・背景知識の習得13「比較で深める」、「古典世界の夜」―月・星・闇(「平家物語」「源氏物語」)雅な平安の時代が描かれた「源氏物語」「平家物語」について、作品全体の構成や成立の背景を解説するため、「構成と概観」を新たに設置。作品に入る前に概観を知る事は深い理解への近道となるでしょう。▶P22-23、26-27へ「比較で深める」では、同一の和歌を異なる設定で取り上げた「大和物語」と「俊頼髄脳」を採録。また新たな単元として「古典世界の夜」を設置。同じテーマに関する複数(日記・軍記・和歌俳諧)の作品に触れる事が可能。▶P20-21、36~39へ読み比べ学習概概観観「源げ氏じ物も語がり」概概観観「平へ家け物も語が構成と概観り」鹿鹿し谷谷たので陰平謀家発討覚伐。の*俊し密寛か議ら。流る罪ざ。2①石橋山の戦い 源×平1180年8月源頼朝が伊豆で挙兵するも平家軍に大敗。安あ房わに逃れる。②富士川の戦い 源×平1180年10月源頼朝と平維これ盛もり、富士川を隔てて対陣。源氏軍の不戦勝。③倶利伽羅谷の戦い 源×平1183年5月木曽義仲、夜襲をかけて平家軍に大勝。④篠原の戦い 源×平1183年5月木曽義仲・源行ゆき家いえ、平家軍に大勝。享き受・の読繰むりと返いしうを創経造てと

元のページ  ../index.html#15

このブックを見る