探求 文学国語 ダイジェスト版
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疎1開先の新潟県岩い船ふ郡村む上かは城下町で、城じ址しのある臥が牛ぎゅう山ざんの西麓に武家屋敷の残る村上本も町ま、北麓には町人の朱しゅ塗りの店があり、丹念に漆を塗る姿が見られた。もてわういさ5らねわとちみみかね ょうその先には日本海岸に沿って松をいただいた砂丘が南北に人の保養所になっていたが、風呂は誰でも入れた。地で空あ襲っにた明。けす暮でれてにBい429たは東京新潟か県らに来ても現みるれとるよ、うそこにはなっ別天ていたから、ときに空襲警報が鳴り、町の人は緊張した面持ちで空を見上げたが、何事もなく警報は解除されるのであった。えた古風で大きな建物であった。二階は大広間で、一階には小部屋がいくつもあり、四人で住むには大き過ぎたが、一軒家に住めるとは疎開者として過分なことであった。私たち一家に与えられた家は、士族町の一角の5笠か門もんを構戦争と人間紀行・随想住んだ村上町があった。現在は両町が合併して村上市になっているが、当時は士族と商人とは行政区分を異にして住んでいた。古い家並みの商人町を歩くと、ところどころに名産の2堆つ北方には山形県にまたがる朝日山地が奥深く重なり、そこから流れ下った三み面お川がが町の北側をかすめて日本海へ注いでいた。この川はサケ溯そ行この日本海側の南限で、清流の中に捕獲用の柵が設けてあった。まだサケの季節ではないが、河原を歩くと、流れに網を投げてアユをとっている。少し譲ってほしいと頼むと、快く分けてくれた。村上は茶の産地で、茶畑と野菜畑とが町の西側に広がり、宮みや脇わき俊し三ぞうゅん米よ坂さ線109列車昭和二十年八月十五日正午、日本の汽車は時刻表どおりに走っていた―疎開先での私の体験と記憶を当時の時刻表とともにたどります。と連ないっうて瀬せい波なた温。泉そがの湯砂け丘むのり麓をに上はげ、て石お油り試、掘旅中館には3噴傷し湯ょう痍いし軍た1013459

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