探求 文学国語 ダイジェスト版
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ょう4旧盆 5和綴じ 「わのっびてやいかるに」生とまはれ、ど変ういうことか。旧暦の盆。現在の八月十五日頃。和紙を二つ折りにして重ね糸でとじる、本のとじ方。「サヨナラ」ダケガ人生ダい 1雨515和わ綴とじのノートブックを取り出し、かねがね私の愛あ誦ししていた漢詩が翻訳してあるの訳詩だけで独自の作品としてみごとなものになっているのは言うまでもないが、同時に、唐代の五言絶句と、片仮名書きの日本語訳とを見比べると興味は尽きない。とりわけ後半の二句が、何とのびやかに生まれ変わっていることか。もともとの「花発 イテ 多 ク風」の中には「タトヘモアルゾ」に結びつく表現は見いだされないが、これが実に印象的なのである。タトヘは「喩え」ではなく「事例」の意味だろうが、一種ことわざ的な感覚を詩句に与えるとともに、「アルゾ」によってぐっと読者に近寄ってくる。最終句もまた、「人が生きていくうちには別れが多々ある。」というほどの原文の意味を思いきって強め、「ダ」の音の連打を伴って、忘れがたいインパクトを持つ詩句となった。七音と五音の組み合わせの心地よいリズムも鮮やかというほかはない。こうした井伏の名人芸とも言うべき訳詩にはあまり知られていない先例があった。その間の事情には井伏自身が、最初に漢詩訳詩を披露した「田園記」(一九三三年)で触れている。旧4盆に広島・福山の田舎に帰省している間、「亡父の本箱の中をかき回してを発見した。(……)きっと父が参考書から抜き書きしたのであろうと思われる」。それ文学評論Ⅱ翻訳とは創作的な営みである―井伏鱒二の自由大胆な訳詩を例に、翻訳の持つ豊かな可能性について述べた評論です。339 「サヨナラ」ダケガ人生ダ151049

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