探求 文学国語 ダイジェスト版
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今の私にはほとんど心というものが残されていない。私の温ぬくもりはずっと遠くの方に離れていってしまった。ときどき私はその温もりのことさえ忘れてしまう。でもまだなんとか泣くことができる。私はほんとうにひとりぼっちなのだ。世界中の誰よりも孤独な冷たい場所にいるのだ。私が泣くと、氷男は私の頰にくちづけをする。すると私の涙は氷に変わる。そして彼はその涙の氷を手に取り、それを舌の上に載せる。ねえ君のことを愛しているよと彼は言う。それは噓うじゃない。それはちゃんとわかる。氷男は私のことを愛しているのだ。でもどこかから吹きこんできた風が、彼の白く凍った言葉を過去へ過去へと吹き飛ばしていく。私は泣く。氷の涙をぽろぽろと流し続ける。遠く凍えた南極の氷の家の中で。小説Ⅳそ5氷男と結婚した私が、氷男に南極行きを持ち出したところから、二人の関係に変化が生じる―人間存在の不思議さを描いた小説です。1036635

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