探求 文学国語 ダイジェスト版
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*メタフィクション  小説を創作する過程自体を語る形式の小説。メタは「高次の」「超越した」の意の接頭語。小説Ⅴり、それぞれ主人公を視点人物にして語られている。「三四郎」では初々しい主人公に対する語り手の批評も付されるが、「それから」となると三角関係がほとんど主人公の視点から語られて緊迫感がある。続編的内容である「門」の前半では主人公の妻や弟にも視点が移されるが、やがて主人公に一元化していく。後期三部作と呼ばれる第一作「彼ひ岸がん過すぎ迄まで」は三人称で始めながらも、後半は登場人物が一人称で語る形に変化する。次作「行こう人じん」は中心人物である一郎の弟の語りで始まり、最終章の後半は一郎の友人の長い手紙なのですべて一人称である。それぞれが語る一郎像には差異があることに留意すると、一人称語りの一面性が生むズレが見えてくる。「こころ」は書生である「私」が「先生」との出会いを語り、「先生」が「私」に宛てた遺書が提示されて終わるので、これも全体が一人称形式である。ここでも「私」と「先生」それぞれが抱く「奥さん」(「先生」の妻)像との間にズレが読めるか否か、議論の余地がある。こうした三人称から一人称への逆行は緊迫した内面を直接語るために選ばれたのかもしれないが、その後の自伝的な「道草」では主人公のみならずその妻をも視点にしつつ、客観的な語り手の三人称形式に戻る。一方的に見る存在だった主人公が、見られる存在として相対化されていく。最後の「明暗」も「道草」の延長線上で視点を主人公と妻を中心に、それ以外の人物にも移しながら多元的な世界が〈全知視点〉(五九ページ参照)で描かれる。主人公中心の初期三部作とは異質な、相対的世界の創出である。「坊っちゃん」の原稿には訂正がほとんど見当たらないのに反して、「道草」や「明暗」の原稿は漱石の苦渋がそのまま現れたかのように、加筆や訂正に満ちている。おそらく漱石にとって、あるいは日本の作家にとって一人称で語るのが自然であって書きやすく、主人公以外をも視点にした相対的な世界を、〈全知視点〉で書くことは想像以上に困難だったようである。「明暗」執筆中の漱石が芥あくた川がわ龍りゅう之の介すけたちに宛てた手紙には、「明暗」を執筆することは快楽であると共に苦痛でもあると記されている。創作の楽しみを味わう一方で、西洋風の〈全知視点〉で相対的世界を描こうとするストレスのためもあってか、完結できぬまま胃潰瘍の出血で無念な最期を迎えた。作品ごとの人称の違いについて解説したコラムにより、漱石作品への理解を深めます。213 小説コラム227

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