探求 文学国語 ダイジェスト版
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語る「私」と語られる「私」 ―一人称小説の「語り」小説コラム 3一人称の小説が三人称のそれと差異化される目立った特徴は、語り手が登場人物として作品内に現れている点である。三人称の語り手は作品の世界から超越して語っているので、〈神の視点〉〈全知視点〉などと呼ばれることもある。例えば「畜犬談」の「私」は作中で主人公として活発に言動しているが、「山月記」(四六ページ)の語り手は作品内の時空から超越した位置で客観的に語っていて、李り徴ちょうや袁えん一人称の小説を読む際に気をつけなければならないのは、「私」が、語り手として語る「私」と、登場人物として語られる「私」とに二重化されている点である。語る「私」は作中に姿を現すことがなく、一方の語られる「私」は登場人物として現れて言動するわけである。留意すべきは二つの「私」が異なる時空に属している点であり、語る「私」が属しているのは語っている〈現在〉の時間・空間であり、語られる「私」が生きているのは基本的に〈過去〉の時空である。「畜犬談」でいえば、語られていることは既に過ぎ去ったことであり、例えば「今年の正月」(二九二・上11)や小説Ⅲ▼小説コラム1(五九ページ)傪さんの生きる世界とは異なる地平にいるのである。「早春のこと」(二九四・下13)が過去の時間を表しているのは見やすい。「今年の正月」は、語っている〈現在〉から振り返って、既に過去となった「正月」の時点だということになる。語る「私」が作品内の時空から超越しているのであるから、その自在さで作品の言葉を紡ぎ出している点にも注意すべきである。間違いやすいのは、語る「私」は必ずしも〈過去〉を正確に再現しようとはしていないことである。事実の再現を指向しないでむしろ笑いを目もく論ろんでいるのは、冒頭の被害妄想を思わせる大仰な語り口からして明らかであろう。作品の言葉でいかに読者を楽しませるか・感動させるかが大事だという観点からすれば、作中にウソ(大仰な自虐的表現や毒殺の試みなど)を書き込むことなど何ほどのことでもない。すべてが語る「私」に回収されるのであり、語る「私」が虚構の存在である以上、作家自身にウソの責任を問うてはならない。そもそも小説自体がウソ(虚構)だというのが太宰治の強固な小説観であり、「畜犬談」という見事な虚構世界を見ても、太宰は稀き代たいのウソつき(小説家)だということである。 語り手の視点から作品を論じたコラムによって、作者の意図を深く読み解きます。305 小説コラム313

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