探求 文学国語 ダイジェスト版
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語り手という虚構の存在 ―三人称小説の「語り」小説コラム 1人は誰しもまずは生身の生活者として生きている。単なる個人である。その個人が小説を書いたときに作者となる。では、どういう仕方で小説を書くのか。小説を書きだすとき、「私は」で書くのか、「A君は」で書くのか、そのどちらかを決めなければ、一行たりとも書くことができない。だからまず、この二つの書き方から選択をしなければならない。その結果として、「私は」で書かれたタイプのものを一人称小説、「A君は」で書かれたタイプのものを三人称小説という。そして、そのいずれにも、小説に使われる言葉を統率して読者に語りかける語り手という虚構の存在がいて、それぞれ一人称の語り手、三人称の語り手と呼ばれる。中島敦の「山月記」の場合は、「李徴は」虎になった、「袁傪は」恐怖を忘れた、というように、登場人物を三人称で呼び、その人物たちと直接関わりを持たない第三者の立場に立った、虚構の存在としての語り手によって書かれているので、三人称小説である。では、「山月記」の語り手には、どのような特徴があるのだろうか。この語り手は、李徴だけでなく袁傪について小説Ⅱ▼小説コラム3(三〇五ページ)もその居住地、生きてきた履歴、そして性格に至るまでそのすべてといってよいほどのことを知っている。これは生身の人間の能力を超えている。だからこのような語りのあり方を〈神の視点〉、または〈全知視点〉という。そして三人称小説の面白さは、現実にはありえない何でも知ることのできるスーパーマンの語り手により、すべての角度から小説の世界が見えてしまう非現実性にある。このようにして「山月記」の内容は、三人称の語り手によって、登場人物の言動、心理が明快にかつ客観的に、断定的な表現によって書かれる。だが、一か所だけ、語り手が全部を知っていてよいはずの視点からは語っていない部分がある。李徴と袁傪が親友でありえた理由を述べるところである。「温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。」(四七・16)と推量形で書いていて、断定していない。これは、三人称小説によくある語りで、語り手が主観を出すことにより、読者と同じ人間として内容を一緒に考えて、読者に小説を身近に感じさせる効果があるのである。 59 小説コラム112

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