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        【読解】1「このずれ」(二六・11)とあるが、身体あるいは2「からだは誰のものか。いのちは誰のものか。」生命は誰のものかという問題について、一般的に、とめてみよう。どのような異なった考え方・感情があるのか、ま(二五・1)という問いに対して、筆おおむねの到達目標と者はなる言語活動として「活どの動」を設定しましたように答えているか、その答えの根拠を挙げながらまとめてみよう。構成〔見解の根拠〕生きつつ ▼あとるもかに」生にき注る意 し三〇なペがーらジ、〔こ参の考作〕品 小を説 「読晴んれでたみ空よのう下。でそ」のにうおえいでて、「、「いわのしち」はは誰「の誰もとのとかも?」にの本文で問われている「からだは誰のものか、いのちは誰のものか」についてどう思うか、改めて考えてみよう。さらに、実際に、あなた自身は誰とともに生きつつあるのか、考えてみよう。鷲田清一を社会が抱える諸問題につなぐ、臨床哲学の研究に取り組んでいる。主な著作に「モードの迷宮」「『聴く』ことの力」「わかりやすいはわかりにくい?」などがある。本文は「死なないでいる理由」(二〇〇二年刊)によった。【表現】3「生命」(二七・12)と「生活」(二七・13)に同じ振り仮名「ライフ」が付されている効果を説明してみよう。活動▼読む だ 「。」(個人二八の・そ4の)身と体いがう…筆…者やのっ考とえ一につつのい生て命どはう終思わうるか、の自分の体験をもとに、グループで話し合ってみよう。きていた」「がらくた」「犬とハモニカ」などがある。本文は「つめたいよるに」(一九九六年刊)によった。2  小説の冒頭「わしらは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。」(三〇・上1)と、末尾近くの「わし3  1·2の問いを踏まえて、二九ページ〈知〉の深化の問いについて考えてみよう。江國香織いのちは誰のものか?鷲わし田だ清きよ一かず小説 晴れた空の下で江え國くに香か織おり 1  55  じついあんり 評論Ⅰ安1楽死の問題をめぐって、臓器移植をめぐって、人工中絶や出2生前診断の是非をめぐからだは誰のものか。いのちは誰のものか。って、このことがいつも問題になる。そのとき、その問いはいつも個人の自由の問題と絡めて論じられる。個人が自由であるとは、個人がその存在、その行動のあり方を自らの意志で決定できる状態にあるということである。わたしの身体もわたしの生命もほかならぬこのわたしのものであって、この身体を本人の同意なしに他から傷つけられたり、その活動を強制されたりすることがあってはならないというのは、「基本的人権」という理念の核にある考え方であるといってよい。自殺の正当化にあたっても、献3体の登録や臓器の提供にあたっても、その背景にあるのは同じ論理である。生きて死ぬのはほかならぬこの自分であるから死に方は当人が決めることができる、自分の身体は自分のものだからそれをどう処分しようと(美容整形1の安楽ない死病 人助をか、る例見本え人込のみばこうして婆ばさんが玉子焼きを作る。わしはそれを2出生前診断 る妊と婦、婆の血さんはかすかにほほ笑んで、あの木はとっくに切っ3献体 教育・そ研う究だ目的ったかもしらん、と思う。そして、ふと箸を置いた苦痛の少ない方法で死希望に従って食、べ医て師が、昔よく花見に行ったことを思い出す。そういえばなせること。今年はうちの桜がまだ咲いとらんな、と思いながら庭を見液検査などにたよじっゃて、ないですか、と言う。二十年も前に、毛虫がついて難胎児の先天的な異常の有無を調べる儀診し断て。、お爺じさんご自分でお切りになったじゃないですか。の解剖のため瞬に間、に自分、その二十年間をもう一度生きてしまったりする。の死後の体を大学などに無償で提供す婆るさことん。は婆さんで、例えば今も鰺あをつつきながら、辰た夫お是非 理念1茎ぺをん割ぺいんて草振 ナるとズ、ナシ(ャアラブシラャナラ科との音越が年す草る)。の別称。実の付いた2卓袱台鰺が好物の辰夫はわしらの息子で、この春試験に失敗たのはわしらの孫、辰夫の息子なのだった。説明すると婆さんは少しも驚いた顔をせず、そうそう、そうでしたと言って微笑する。まるで、そんなのどちらでも同じこだというように。すると、白いごはんをゆっくりゆっくかんでいる婆さんの、伏せたまつ毛を三十年も四十年も時間が滑っていくのが見えるのだ。「どうしたんです、ぼんやりして。」ごはんから顔を上げて婆さんが言う。「おつゆが冷めますよ。」わしはうなずいてお椀わをすすった。小さな1手て鞠ま麩ぶが、にやわらかい。昔、婆さんも手鞠麩のようにやわらかい娘だった。手麩のようにやわらかくて、玉子焼きのようにやさしい味した。うふふ、と恥ずかしそうに婆さんが笑うので、わしは 〈知〉の深化わしらは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。入れ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。「そうだったかな。」わしはぽっくりと黄色い玉子焼きをもう一つ口に入れ、は来年こそ無事大学に入れるといいですね、などと言う。「違うよ。そりゃ辰夫じゃない。」「夕飯にも、玉子焼きと手鞠麩のおつゆを作ってくれんかな。」いいですよ、と言って、次男の嫁は明るく笑った。わしは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。入れ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。深める手がかりある」(二八・2)と述べられているが、「わし」が現実世界と記憶の世界を行き来するのは、どういうことがき  評論「いのちは誰 ▼のともものにか生?き」るに おいて、人の身体と生命は「いつも他の身体との交わりややりとりの中にっかけになっていると考えられるか、話し合ってみよう。は最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。」(三三・上3)の表現から、「わし」は「誰と生きてきたか」、また、「誰とともに生きつつあるか」、考えてみよう。評論Ⅰ学習の手引き 〈知〉の深化次の一冊 河かわい合隼はや雄お/鷲田清一「臨床とことば」▼人間とは何か、哲学的な問いに向き合ってみよう。評論Ⅰ①要旨の把握②解釈の深化評論Ⅰ ▼鷲田清一「いのちは誰のものか?」(二五ページ)の〔参考〕として10 一九四九(昭評論「テーマ」(例:和24「ともに生きる」)を)年~設定し、小説と組。哲み合わせることで学者テーマの理解が深。京都まります府生まれ。哲学の観点から独自の論を展開する一方、哲学の発想 一九六四(昭和39)年~。小説家。東京都生まれ。主な作品に「きらきらひかる」「ぼくの小鳥ちゃん」「号泣する準備はで3029 いのちは誰のものか? 折り畳める脚の付いた、低い食卓。25 いのちは誰のものか?13〈知〉の深化33 〈知〉の深化 晴れた空の下で教科書33ページ教科書29ページ言語活動教科書25ページ教科書30ページ

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