探求 現代の国語/探求言語文化 付属教材・資料見本
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3発展…発展的な位置づけとなる解説や資料を豊富に掲げました。①「羅生門」の主題について 賞3発展羅生門教科書(二〇四〜二一六)として否定する動きが現れた。ここから主題を求めて鑑賞える説、羅生門をさまざまな二項対立を引き起こす媒の長い諸説紛々たる時代が始まる。多くの芥川研究者がさまざまな視点から「羅生門」を捉え、主題を設定している。例を挙げれば、駒尺喜美は「作者は認識者の視点に立って、矛盾の同時的存在物たる人間をみているのだ」とし、「善と悪との矛盾体である人間を、人間現実そのままに示しだそうとしているだけだ」(『芥川龍之介の世界』)として、人間の善悪二元論を主題に置いている。関口安義は「己を緊縛するものからの解放の叫び」を主題として考え、「追いつめられた限界状況に露呈する人間悪」「存在そのものの負わねばならぬ苦痛」が示されているとした。そして「失恋事件を通して実感したわずらわしい人間関係や人間倫理の否定、つまり己を縛る律法からの完全な解放」が芥川の「羅生門」執筆の動機・目的であるとした(『批評と研究之介』)。三好行雄は「日常的な救済をすべて絶たれた存在悪のかたち」を主題として、救いのない闇の中に生きるしかない下人を、存在悪の象徴と捉えた(『芥川龍之介論』)。このほかにも、下人の自我の覚醒の物語であると捉近代の小説②芥川と「今昔物語集」主題の把握は小説の読解の最終目標というべきなのだろうか。現在の「国語総合」のほぼすべての教科書で「羅生門」が採られている。この風潮は一九七〇年代に始まったということだが、これまで四十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教員が必ずといっていいほど授業で取り扱ってきたこの作品は、しかし、その主題がまだ確定していない。主題をめぐる諸説の変遷の歴史は、第二次世界大戦中の一九四二(昭和17)年頃から始まる。岩上順一は「饑うえの前にはいかなる悪行も許される」という点に主題を見いだし、「芥川は当時の労働の根拠を下人の行為に於て設定した」(『歴史文学論』)とした。これに対して吉田精一は「下人の心理の推移」が主題であり、「生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである」(『芥川龍之介』)とした。すべての人間の心の中に存在するエゴイズムを描くことが「羅生門」の主題であるとするこの説は、標準的な主題の捉え方として定着した。しかし、これに対して、唯物論的・概念的にすぎる芥川龍て示されている。なお、この間の諸説の変遷は、『芥川龍之介「羅生門」作品論集成』(上下巻)に集められている。 「羅生門」は、このようにさまざまな読み方を可能にする要素を持つ。それはこの作品の不完全性ともいえるのかもしれない。芥川がまだ小説家としての道をたどり始めたばかりの頃、現代の感覚でいえば大学を出たばかりの文学青年であった頃の作品である。いくら芥川が天才であったとしても、この時期の作品に完全性を求めるのは無理であろう。しかし、その不完全性がこの作品の魅力であるという逆説的な見方もできるであろう。不完全であり、考える余裕があるがゆえに、読者は自分の人生観をこの作品の中に映し、芥川の世界を自分のものにすることができるのである。 現在では誰もがその存在を知る「今昔物語集」であるが、実は「今昔物語集」は近代に入るまで一般には知られることのなかった古典であった。それは芥川が96  鑑      説体考異ま文よな空えとし学りど、し間、芥て性た・深い見に川。古くろ直着のいす青目典鑑ろ春説す教賞な時、る「作代説材す黒品、の洞にると羅絶々主望生つたた題を門るいめの述を夜捉べ一ての」をえつるは解方説の下が境、人、説諸の舞界作を氏台と到品掲に設考達よ点え定をげっとのる*言語文化 指導資料(近代以降の文章編)

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