探求 現代の国語/探求言語文化 付属教材・資料見本
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①川上弘美「草上の昼食」より②川上弘美の小説世界参考資料〈知〉の深化 神様評論Ⅱ努力はしながらも、その抑制の一端を解いた「わたし」との散歩を「いい散歩でした」と振り返っている。散歩の最後に、「故郷の習慣」として「抱擁」を求め、「熊の神様のお恵み」を祈るのは、人間との共存を願いながらも、「くま」が「くま」である自分を大切に生きていることの表れであろう。ただ、「くま」がこれからも人間社会で生きていこうとするのであれば「くま本来」のあり方を抑制し続けるという状況は変わらない。では、「わたし」と「くま」の散歩には、どのような意味があったのか。川上弘美は、(川上弘美・穂村弘対恋人に期待なんてしない 『ユリイカ』二〇〇三年で穂村の)「読者は『神様』での「くま」との抱擁の中に、ある種の完全性を見ている」という指摘に対し、「だけど、私が書くのはいつも一瞬のことだよ」「「くま」がなにを考えているのかわからない怖い奴だということをけっこう書いたつもりだったんだけど。だからこそ、もしかして「くま」は人間を食べようとしているのかもしれないということを脇に置いて、抱擁した一瞬がすばらしい」と語っている。 「わたし」も「くま」も、互いに異類であることを意識している。「散歩」の間も、改めて異質なものとの共存の難しさを感じたはずである。それでも、「くま」は「わたし」との交流を持った一日を喜び、「わたし」も「くま」の「故郷の習慣」である抱擁を受け入れるのである。抱擁の一瞬間、「くま」の願いが実ったと考えてみたい。熊の神様って、どんな神様なの。かみなりがおさまると、雨もじきに止んだ。くまはあたりに散らばっていたバスケットや水筒を拾い集め、泥汚れをタオルで大ざっぱに拭きとり、ぶるぶると体を揺らして水を切った。水滴が飛び散る。わたしも真似をして体をゆすってみたが、くまのようにうまくはまき散らせない。ひとしきり共に水をはねかせた後に、わたしはくまに聞いたのであった。「熊の神様はね、熊に似たものですよ」くまは少しずつ目を閉じながら答えた。なるほど。「人の神様は人に似たものでしょう」そうね。「人と熊は違うものなんですね」目を閉じきると、くまはそっと言った。違うのね、きっと。くまの吠える声を思い出しながら、わたしもそっと言った。「故郷に帰ったら、手紙書きます」くまはやわらかく目を閉じたまま、わたしの背をぽんぽんと叩いた。書いてね。待ってる。それ以上何も言わずに、くまとわたしは草原に立っていた。日が傾きかけていた。夕日が大きい。低い雲は風に飛ばされ、高いところに掃いたような雲が流れている。くまもわたしも彼方を眺めていた。いつかくまに抱擁されたときのことを思い出していた。あのときの抱擁は、おずおずとした抱擁だった。帰っちゃうのね。彼方を向いたまま言うと参、考資料「さようなら」くまも彼方を向いたまま言った。さよなら。今日はおいしかった。熊の世界で一番教の材の界定のでテは時ー代、擬やマ声場や語所にが、生結作びき者つ生きく・と固出し有名た典詞表のを情を禁理獲止解得したすにそるつ。のし世料理上手だと思う。手紙、待ってるからね。教科書(八〇〜八五)ながるかも資そ料れはを三掲島由げ紀ま夫しが幸た田。文の『流れる』を例に挙 くまはこのたびは抱擁しなかった。わずかに離れて並んだまま、くまとわたしはずっと夕日を眺めていた。 川上弘美はきわめて印象的な擬声語の使い手である。彼女の世界ではだれもが酒を「ぐいぐい」飲み、恋をしては「くよくよ」し、無口になっては「どんどん」歩き、びっくりすれば「まじまじ」とした顔をするような気がする。ここで「神様」の「くま」が魚を獲る場面は一種の情景描写と言ってよいが、そこで多用される「すいすい」「じっと」「ざぶざぶ」「さっと」「きらきら」といった擬声語が、その世界の印象を作り上げている。 通常擬声語は、文章においてはその多用を戒められる。というのも擬声語は、起源を辿ればおそらく言語の発生の薄明まで辿ることのできる由緒正しい、つまりは類型的な表現で、使い方を誤ればたちまち文章を台無しにしてしまうからである。たとえば三島由紀夫の『文章読本』は、「擬音詞の第一の特徴は抽象性がないということであります。それは事物を事物のままに人の耳に伝達するだけの作用しかなく、言語が本来の機能をもたない、堕落した形であります。それが抽象的言語の間に混ると、言語の抽象性を汚し、濫用されるに及んでは作品の世界の独立性を汚します」(『文章読本』)と、その濫用を戒めている。 けれどもこうした「抽象性がない」擬声語の具体性こそ川上弘美の世界が必要としているものであり、特27         談   *現代の国語 指導資料(〈知〉の深化)

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