教科書に登場する人物をとりあげ,教科書では伝えきれなかったその人の魅力を探ります。
今回は?

第9回 滝廉太郎(たきれんたろう)

★明治時代の作曲家。





  【教科書対応ページ】

 新課程版 新日本史B P.322





########## 若き天才作曲家の無念の生涯 ##########

憾(うら)み=残念に思う気持ち(大辞林)。心のこり(大漢和辞典)。

東京都千代田区麹町にある滝廉太郎住居跡の記念碑にあるレリーフ。


 いきなり私事で恐縮だが,私の通った小学校には,古い平屋の木造校舎があった(遠い昔のことである)。この校舎には教室は3つしかなく,そのうちの一つが音楽室だった。
 音楽室には,正面左手にアップライト型のピアノ,右手にオルガン,中央には大きめの教壇が2つ舞台がわりに並べられ,四方の壁の上方には,西洋の作曲家の肖像画が,ぐるりと教室を取り囲むように貼られていた。写真は大体年代順に並んでいる。バッハ,ヘンデル,ハイドン。これら「謎の白髪頭」の一群に続いて,柔和な顔のモーツァルト,眉間にシワを寄せたベートーヴェン。さらに,ガリ勉のようなシューベルト,性別不明のショパン……等々,いずれもすでに眼に焼き付いてしまったおなじみの作曲家たちが並んでいた。それらの顔を眺めていくと,最後に登場するのがこの中で唯一の日本人,滝廉太郎であった。
 そうそうたる大作曲家たちと並べられているのだから,きっとすごい作曲家に違いない,とは子供心に思うものの,どこがどうすごいのか,実のところよくはわからなかった。


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作詞 土井晩翠
作曲 滝廉太郎

春 高楼(こうろう)の花の宴(えん)
めぐる盃(さかずき) かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え) わけいでし
昔の光 いまいずこ

秋 陣営(じんえい)の霜(しも)の色
鳴きゆく雁(かり)の 数見せて
植うるつるぎに 照りそいし
昔の光 いまいずこ

いま 荒城のよはの月
替(かわ)らぬ光 誰(た)がためぞ
垣(かき)に残るは ただかづら
松に歌ふは ただあらし

天上 影は替らねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか いまもなほ
嗚呼(ああ)荒城の よはの月

 1998(平成10)年12月,文部省(現在の文部科学省)から指導要領改定案が公表されると,小さな騒動が持ち上がった。学校の音楽の教科書から「荒城の月」が消えてしまうというのである。それまで必修扱いだった「荒城の月」が,改定案で必修からはずされたことが発端であった。あのような日本の誇る名曲を子供たちに教えなくて,何の音楽教育か,というのがそれに反対する人々の主張である。この小さな騒動は,またたくまに大きなうねりとなって日本全国に広がっていった。その中心にあったのが,滝廉太郎がかつて住み,「荒城の月」の曲想を得たという岡城のある大分県竹田(たけた)市であった。
 竹田市議会は即刻,教科書への継続採用を求める議決をおこない,年の明けた99年1月にはそのための実行委員会を結成して運動を繰り広げ,全国で10万人を超える署名を集めた。

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 さて,この「荒城の月」が滝廉太郎の代表作であることは,おそらく誰もが知っているに違いない。しかし,滝廉太郎本人のこととなると,以外と知られていないのが現実ではないだろうか。
 この滝廉太郎という作曲家はどのような人物だったのか,その足跡をたどってみることにしよう。

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 滝廉太郎は,1879(明治12)年8月に東京で生まれた。父は明治政府に仕える役人である。
 もともと滝家は,大分の日出(ひじ)藩家老をつとめる名家であったが,維新後,父の吉弘は上京し,大久保利通や伊藤博文に仕えていた。しかし,維新勲功(くんこう)の藩閥(はんばつ)が幅をきかせる世界にあって,いくら名家とはいえ小藩出身の吉弘が安定した職を常に得られるほど,中央の役人生活は甘いものではなかった。廉太郎誕生後,滝家は,横浜,富山,大分と,各地を転々とする。そして,大分県竹田の町に移り住んだのが1891(明治24)年,廉太郎が13歳のときであった。廉太郎は直入郡(なおいりぐん)高等小学校2年に転入する。
 成績は抜群だったという。父は,長男の廉太郎を自分と同じように役人にさせるつもりでいたが,廉太郎は小さいころから音楽に興味を示していた。そこへもってきて,4年のときに担任となった先生が音楽に造詣(ぞうけい)のある先生で,廉太郎にオルガンを教えてくれたのである。それがきっかけとなって,廉太郎は音楽家への道を歩む決心をする。
 1894(明治27)年4月,高等小学校を卒業すると,廉太郎は義兄をたよって東京へと旅立つ。めざすは東京音楽学校である。日清戦争勃発の直前であった。

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 ここで,東京音楽学校についてふれておこう。
 東京音楽学校の前身である音楽取調掛(とりしらべがかり)が設置されたのは,1879(明治12)年,奇しくも,廉太郎と東京音楽学校は同じ年にこの世に生まれたことになる。
 当時の日本は,国をあげて西洋を追いかけていた。わずか十数年前に,攘夷(じょうい=外国を打ち払うこと),攘夷と騒いでいた国と同じ国とは思えない程の変貌ぶりである。すべては西洋に見習え,という風潮は,一方で日本古来の伝統文化を古くさく卑下すべきものとして排除した。音楽とても例外ではない。音楽取調掛が設置されたのも,西洋の音楽を輸入し,国内に広めるのが目的だった。
 このような極端な欧化主義は,1883(明治16)年の鹿鳴館(ろくめいかん)建設でピークに達する。音楽取調掛はその4年後,87(明治20)年に東京音楽学校となり,本格的に西洋音楽家と音楽教育者の育成に乗り出した。この東京音楽学校は,アジア太平洋戦争後の1949年に東京美術学校と合併して,現在の東京芸術大学となる。

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 さて,廉太郎は上京すると,小山作之助という東京音楽学校助教授が塾長をつとめる芝唱歌会に入って受験勉強し,わずか半年後(1894年9月)には東京音楽学校の仮入学試験に合格する。廉太郎15歳,合格者35名中,最年少であった。
 しかし,まだ仮入学である。その後,音楽以外にもさまざまな授業を受け,成績優秀でなければ本科には進むことができない。音楽はともかく,それ以外の教科ではさすがに15歳の廉太郎にはきつかったらしい。翌95(明治28)年6月,無事本科に入学することができるが,その陰では,廉太郎の音楽的才能を高く評価した小山作之助の,必死の工作があったといわれている。
 音楽学校の教授には,新進の音楽家幸田延(こうだのぶ)がいた。延には幸(こう)という妹がいて,音楽学校に在籍していた。廉太郎の2年先輩である。音楽上の強力なライバルであった。一方で,廉太郎の短い生涯において,ほのかにロマンスの香りをかぐことのできる数少ない女性のひとりでもある。もっともこのころは,今のような自由恋愛は許されない時代である。かりに恋愛めいたことがあったとしても,それは心密かにあこがれる程度のことであったに違いない。ちなみに,この幸田姉妹の兄は,明治の文豪幸田露伴である。
 延や優秀なドイツ人講師たちの手ほどきをうけ,また,幸という良き友,良きライバルを得て,廉太郎はひたすら音楽の勉強に励むことになる。
麹町の滝廉太郎住居跡の全体像。この地で廉太郎は「荒城の月」をはじめとする数々の唱歌を作曲した。  1898(明治31)年7月,本科を優秀な成績で卒業すると,研究科に進学。ころのころすでに天才音楽家の名をほしいままにしていた廉太郎は,翌年には早くも,授業補助という肩書きで後進の指導にもあたるようになる。
 その廉太郎に大きな転機が訪れたのが,1900(明治33)年6月のことであった。ドイツ留学の辞令が届いたのである。期間は3年間。西洋音楽の本場ドイツへの留学である。最高の栄誉であった。
 しかし,今や廉太郎は音楽学校の貴重な教師でもある。その廉太郎の抜けた穴をすぐに埋めることができない,ということで留学は1年間延期されることになった。

 天はときに奇妙ないたずら――味な計らい,と言ったほうがよいだろうか――をする。この1年間は,結果的に,日本の近代音楽にとってかけがえのない1年間となった。なぜなら,廉太郎の多くの作品がこの1年間に生み出されることになったからである。

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 当時,日本の音楽はほとんど西洋音楽の輸入と模倣で成り立っていた。日本人の手による日本人のための本格的西洋音楽を作ることは,当時の音楽学校や音楽家たちの悲願であった。日本人が口ずさむことのできる音楽を日本人自身の手でつくりたい……,廉太郎はこの1年間を利用して,その思いを実行しようとしたのである。
 廉太郎はまず,春・夏・秋・冬の4曲から成る組曲「四季」を完成させる。この中の「春」があの「春のうららの隅田川……」である。
 そのかたわら,「中学唱歌集」の作曲も手がけている。
 当時の文部省は,日本の学校で教えることのできる自前の唱歌を作ることを東京音楽学校に求めていた。これをうけて音楽学校では,当代の詩人たちに作詞を依頼していた。作曲は公募である。廉太郎は,40編ほど集まっていた詩の中から3編を選び出して作曲し,応募した。廉太郎の3曲はすべて入選した。賞金は1曲につき当時の金額で5円,合計15円の大金であったという。
 この3曲とは,「箱根八里」「豊太閤」そして「荒城の月」であった。曲想はすべて異なる。わずかな期間で,異なる調べの名曲をいっぺんに3曲も生み出した廉太郎の才は,高く評価された。
 それだけではない。その半年後には「幼稚園唱歌」を完成させる。この中には,「鯉幟(こいのぼり)」「お正月」「桃太郎」など,今でもよく歌われる17編の唱歌が収録されている。
 わずか1年のあいだに作曲されたこれら数々の名曲によって,日本近代音楽史の第1ページ目に滝廉太郎の名は永遠に刻まれることになったのである。廉太郎,21歳であった。

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 滝廉太郎作曲の数々の唱歌の中でも,ひときわ光彩を放っているのが「荒城の月」であろう。この名曲は,滝廉太郎の名とともに,ひとりの詩人の名をも広く日本国民の心に刻んだ。その詩人とは,土井晩翠(どいばんすい=本名はツチイだが,人々がドイと誤読するので,のちにみずからドイと改めている)である。廉太郎よりも8歳年上であった。
 欧化主義の波は文学の世界にも押し寄せていた。維新当時,詩歌といえば伝統的な和歌,俳句,漢詩をさした。いずれも,字数等に代表されるように,極端な制約の元に成立する文学形態であった。そこに,西洋風の詩歌を導入しようとしたのである。ご多分にもれず,ここでもまずは西洋詩の移植から試みられた。その第一の試みが,外山正一(とやままさかず)らによる『新体詩抄(しんたいししょう)』(1882年)であったが,このような「新体詩」が根付くまでには,それからおよそ15年の歳月を必要とした。
 新体詩を日本人として初めて芸術の域にまで高めることに成功したのが,島崎藤村であったといわれる。藤村は,1897(明治30)年に『若菜集』を世に出す。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき……」と,藤村は,若々しい青春の叙情をみずみずしい日本語でうたいあげた。
 当時,この藤村と並び称せられたのが土井晩翠である。生々しい叙情性を前面に打ち出す藤村に対し,漢語を駆使した晩翠は,勇壮・男性的な詩人と称された。代表作は『天地有情(てんちうじょう)』(1899年)である。
 しかし,その後のふたりの足跡は大きく異なる。『落梅集』を経て小説家に転身した藤村が,近代文学史上ゆるぎない地位を築いていったのに対して,晩翠はついに『天地有情』を超える作品を生み出すことはなかった。かつて藤村晩翠時代なる一時期を画したことが嘘のように,土井の文学史上における現在の評価は,藤村に比べ,はるかに小さなものでしかない。

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現在の鶴が城は1965年に再建されたものである。

 その土井晩翠が,東京音楽学校の依頼をうけて「荒城の月」を作詞したのは,1898(明治31)年であった。そのとき念頭に思い浮かべたのは,戊辰戦争の際に官軍に敗れた会津若松の鶴が城であったという。満身創痍(まんしんそうい)となった鶴が城は,新政府の命により,1874(明治7)年に取り壊されている。晩翠は天守閣を失ったこの荒城に,故郷仙台青葉城のイメージを重ね合わせて,「荒城の月」を書いたという。
 一方,この詩のイメージに強く心をひかれた廉太郎は,上京する前に住んでいた竹田の岡城を思い浮かべ,作曲したといわれる。荒れ果てた城のイメージが,ひとりの詩人とひとりの音楽家を結びつけ,ひとつの名曲がこの世に生まれることになったのである。

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 1901(明治34)年4月,いよいよ廉太郎はドイツに向けて出発する。2か月後に留学先のライプツィヒに到着。先に留学していた幸田幸との再会もはたし,本場西洋の音楽を本格的に学び始めた。廉太郎は,出発前に作曲した自前の曲をあちこちで披露した。いずれも絶賛をあびたが,なかでも「荒城の月」の評価はきわめて高かったという。
 順風満帆のはずだった。しかし,異変は突然訪れた。その年の11月,廉太郎は高熱を発して寝込んでしまう。診断は結核だった。療養の生活が始まり,もはや音楽の勉強どころではなくなった。翌02年8月,勉学を断念して帰国の途に着く。

 廉太郎を乗せた船は,途中ロンドンに立ち寄った。
 ここで,天は再び奇妙ないたずらをする。このロンドンに,欧州遊学中だった土井晩翠が滞在していたのである。廉太郎を乗せた船が停泊していることを知った晩翠は,船中の廉太郎を訪ねた。「荒城の月」の作詞者と作曲者が,遠い異国の地で初めて顔を合わせたのである。廉太郎は,かの高名な詩人に会えたことに感激し,一方の晩翠は自分の詩にすばらしい曲をつけてくれた廉太郎に感謝の意を表したという。ふたりの人生の糸が,一瞬ではあったが交差した瞬間であった。日本での再会を約して別れたこのふたりが,その後相まみえることは二度となかった。

 帰国後,東京の頼りの義兄が急死し,落胆した廉太郎は大分の実家に帰って療養の日々を送る。
 1903(明治36)年,死期をさとった廉太郎は,死力をふりしぼって最後の曲を書き上げる。完成したその曲に,廉太郎は,ただ一文字「(うらみ)」と記した。廉太郎が息を引き取ったのは,その年の6月29日のことである。23歳と10か月であった。
 歴史的事実の前に「もし」は虚しい言葉でしかないが,もし廉太郎がもう少し生きていてくれたら,日本の音楽はより豊潤なものになっていたはずなのに,と思わざるを得ない,あまりにも惜しまれる死であった。

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 竹田市の反対運動の甲斐があって,かどうかはわからないが,結果的には教科書から「荒城の月」が消えることはなかった。新教科書(現行版の教科書)でも,小・中のほとんどの教科書が「荒城の月」を扱っている。竹田市民をはじめ,「荒城の月」を愛する多くの人々は胸をなでおろしたことだろう。
 しかし名曲が歌い継がれるかどうかは,ひとえにその曲のもつ力によるものであって,決して政治的な力によるものではない。
 滝廉太郎の名を目にすると,私の脳裏にはいつも,あの小学校の古い木造建築の中で見た廉太郎の,分厚い眼鏡をかけた端正な顔が,木の床にひかれた油の香りとともによみがえる。そして思わず口をついて出るのはあの「はるこうろうの……」の一節である。小学校の木造校舎は,私たちの代が卒業したときにその役目を終え,卒業と同時に取り壊されたが,その記憶は,あの哀愁を帯びたメロディーと共に,いつまでも消えることはない。


(編集部 I)




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