教科書に登場する人物をとりあげ,教科書では伝えきれなかったその人の魅力を探ります。
今回は?

第8回 老子・荘子

★古代中国の思想家。





  【教科書対応ページ】

 旧課程版 新倫理 P.78〜88
 新課程版 新世界史A P.9





########## 怨(うら)みに報いるに徳をもってす ##########


 いうまでもないが,中国の歴史は古い。中国で現在確認しうるもっとも古い王朝は,殷(いん)といわれている。その殷が存在したのは紀元前17世紀(今からおよそ3,700年前)から紀元前11世紀(同じく3,100年前)にかけてというのだから,気の遠くなるような古さである。
 その次の王朝が周(しゅう)である。この周王朝は,形の上では紀元前256年に秦(しん)に滅ぼされるまで実に900年近く続くが,実際には紀元前8世紀ぐらいから支配力を失い,その後,中国は戦乱の時代が続いていた。この時代を,春秋・戦国時代という。日本はといえば,縄文時代から弥生時代に移ろうかという時代であった。
 この春秋・戦国時代は,中国各地に群雄が割拠し,互いに戦争を繰り返した時代であり,諸侯は,いかにこの戦乱の世を生き延びるかということに腐心した。そのためには国を栄えさせ,強くしなければならない。その理論的な裏付けを得るために,諸侯はさまざまな思想家を重用した。その結果,世界史上まれにみる思想の時代を現出させることになった。
 この時代に登場する多くの思想家たちを総称して,諸子百家(しょしひゃっか)という。さまざまな人がああだこうだと議論することを百家争鳴(ひゃっかそうめい)というのは,これによる。
 不思議な偶然というべきか,このころ,はるか地球の裏側では,古代ギリシャ哲学が花開いていた。

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 諸子百家のうち,もっとも知名度が高いのはなんといっても儒家(じゅか)の孔子であろう。儒家の思想(儒教)は,のちの漢の時代に国教化されたこともあって,知名度のみならず,その影響力の大きさにおいても絶大なものがある。
 一方,今回取り上げる老子(ロウシ)と荘子(ソウシ)は道家(どうか)の代表的思想家である。道家と言うよりも,老荘思想と言ったほうがなじみがあるかもしれない。おそらく日本では,儒教に次いで人気の高い中国思想である。儒教がおもに現実的な処世術を説いたのに対し,「無為自然」(むいしぜん)を説く老荘思想は,宇宙や人間存在の本質を深く洞察する点において,より思索的・哲学的といえるかもしれない。今日でも熱烈な支持者が絶えないゆえんであろう。

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 荘子の主著は『荘子』である。『荘子』は昔からソウジと読む。一方,人物の荘子はソウシともソウジとも読む。人物はソウシ,書物はソウジと几帳面に使い分ける人(説?)もあるが,実際には研究者によってまちまちである。したがって,人名に関してはどちらで読んでもかまわない(と思う)。
 この荘子,名を周ということはわかっているが,生没年がわからない。孔子が生きたのが紀元前6世紀から5世紀にかけてであるが,それよりもおよそ150年ほどあとの時代(紀元前4世紀ごろ)の人とされている。『荘子』も実際にどこまで荘子自身が書いているのか,よくわからない。かなりの部分は,のちの時代に加筆修正されたものであろう,といわれている。
 この荘子が師と仰ぐ老子も,生没年がわからない。孔子と同時代の人という説もあるが,実在を疑う説すらある。しかし,『老子』(これはロウシでよい)という書物は実在する。実在するからにはそれを書いた人がいたわけで,その書いた人を老子とよんでいる,と考えたほうがよさそうだ。しかしこれも,果たしてひとりの人物が書いたものかどうかはわからない。

 荘子といい老子といい,なぜそんなにも不明だらけなのかという点に関しては,儒家陰謀説がある。つまり,国教化された儒家にとって,それを批判的に説く道家の思想は許しがたかったため,道家を世の中から抹殺しようとした,というのである。かなりマユツバ的な説ではあるが,『荘子』の中で孔子が徹底的にこき下ろされるのを目にすると,そんなうがった説もあながちデマとも言い切れないような気になってくる。たとえばこんな具合だ。

 ある日,孔子の愛弟子である子貢(シコウ)が,畑に水をやる老人を見かけた。その老人は井戸から瓶(かめ)で水を汲(く)み上げては畑に注いでいる。その効率の悪いこと,はなはだしい。
 子貢は老人に,「水を汲む機械を使えばもっと効率的にできますよ」と機械の作りかたを教える。すると老人はこう答える。
 「機械をもてば機械による仕事が発生する。機械による仕事が発生すれば,機械にとらわれる心が生まれる。機械にとらわれる心が胸の内に生ずれば,純粋さが失われ,精神が定まらない。だから,便利なのはわかっているがあえて機械を使わないのだ。」
 これを聞いた子貢は恥じ入って,うつむいてしまった。


 孔子門下の中で随一の俊才とうたわれた子貢をあえて登場させて,コケにしているのである。それだけではない。返す刀で孔子さえも一刀両断する。

 老人が子貢に「あなたは何者だ」と問いかけると,子貢は「孔子の門人です」と答えた。それを聞いた老人はこう言う。「あの聖人きどりで人々を惑わし,哀しそうな顔をして名声を天下に売ろうとするやつか。」

 ここまで言われては孔子もかたなしである。
 『荘子』には,このように孔子がたびたび登場する。時にはこき下ろし,時には孔子自身に老荘思想を語らせる。儒家陰謀説の真偽はともかく,『荘子』が相当儒教を意識していたことは間違いなさそうだ。その例としてこの話を引用したのだが,実はこの老人の機械に関する考え方,これは老荘思想のひとつの典型なのである。いわゆる「無為自然」の考え方だ。

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 この老荘思想,理解するのも説明するのもなかなか難しいシロモノだが,蛮勇をふるって,わかる範囲でほんのさわり程度に触れてみる。
 まずは,『老子』『荘子』から生まれた故事成語をいくつか並べてみよう。いくつご存知だろうか。

 奢(おご)れるものは久しからず……説明不要ですね。
 みずから誇る者は功なし……自分の功績や能力を鼻にかける者は成功しない。
 功なり名遂げて身退くは天の道なり……ある仕事を成し遂げたら退くのが天の道である。
 兵は不祥の器なり……武器とか戦争とかいうものは不吉なものである。
 よく人を用いるものはこれが下(しも)となる……人を使うのがうまい人はへりくだることのできる人だ。
 知る者は言わず,言う者は知らず……物事の道理を知っている人は言葉に出さず,言葉に出す人は何も知らない人だ。
 天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして失わず……天の網は広すぎて粗すぎるように見えて,決して何も漏らさない。
 信言は美ならず,美言は信ならず……真実の言葉は飾らない,飾った言葉は真実ではない。
 無用の用を知る……一見無用なものと思われるものこそ本当は有用なのだ。
 君子の交わりは淡きこと水のごとし……人間関係は淡々としたものがよい。

 ほかにも,「大器晩成」「朝三暮四」など,四字熟語として知られているものも数多い。

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 さて,この老荘思想が理想とするのは,水のような生き方だ。『老子』には「上善は水の如し」とある。お酒ではない。水である。水は低いほう低いほうへと流れ,争うことがなく,しかも世の中を潤して利を生ずる。水のように生きなさい,という。
 知識をひけらかしてはいけない。人の上に立とうとしてはいけない。欲におどらされてはいけない。身の丈にあった生きかたをしろ。この世のものは,美しきも醜きも,善きことも悪しきこともすべて相対的なものであるから,そんなことには惑わされるな……。
 このように老荘思想は,徹底的に謙虚に生きることを説く。したがって,上昇志向をエネルギー源とする若者向きの思想ではないかもしれない。しかし,ある程度年輪を刻み,あるいは競争の世界にいささか疲れた人々の心には,じんわりと染み入ってくる。それが老荘思想の魅力であろう。

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 『老子』によれば,この世の根源にあるのは「道」である。この「道」は中国語では「ダオ」と発音するらしい。英語では「tao」となる。日本語の「ミチ」を想像するとわかりにくくなる。
 この「道」は,この世に万物が生み出される前の混沌としたものである。キリスト教では,この世のあらゆるものは神が創ったことになっているが,『老子』では,この「道」からすべてのものが生み出されたとされている。「道」は無限に大きく,あらゆる時と所に存在しているが,その姿を見ることはできず,強いて言えば「無」であるという。この「無」も,文字通りの何もない「無」を想像してはいけない。存在する「無」である。言いようがないのでこれを「道」と名付けた,ということになる。まさにビッグバンを生み出した宇宙の根源である。
 荘子はさらに考える。「道」さえ本当にあるといえるのか。この世のありとあらゆるものは,果たして存在しているのか存在していないのか,それを証明することさえできない,と説く。「胡蝶の夢」(コチョウのユメ)は,そのことを表している。有名な話なのでご存知の方が多いだろうが,念のため紹介する。

   ある日,自分は蝶になった夢を見た。蝶となってひらひらと舞っているあいだ,私はとても楽しかった。自分が荘周であることすら忘れていた。ところが,ふと眼を覚ますと,自分は荘周である。果たして,荘周が蝶となった夢を見ていたのか,それとも蝶が今荘周となった夢を見ているのか。

 ここで,第2回で取り上げた近代哲学の祖デカルトを思い浮かべた人もあるに違いない。「我思う,ゆえに我あり」のデカルトである。西洋の近代哲学は,物事を考える自分自身の存在を疑い得ないものとしてとらえるところから出発したが,老荘思想はそういう西洋哲学とは対極にある思想といってよいだろう。

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 あらゆるものが相対的なものである以上,そこに分け隔てはなく,人間はどんな人間もすべて等しい,と考える老荘思想。したがって,そこで相争うのはバカげたことだ,と説く。冒頭にふれたように,諸子百家の時代は戦争に明けくれた時代である。その戦乱の時代に,あえて争わない生きかたをすすめているのである。

 現在の世界情勢を鑑(かんが)みると,老荘思想のもつ意味合いがまさに普遍性をもっていることに思いいたらざるをえない。人間とは何と愚かな生きものなのか,と達観して嘆いたところで始まらないとは思うが,「怨みに報いるに徳をもってす」という『老子』のことばに,今一度耳を傾けたくなる昨今の世界情勢ではある。
 あるいは,それほど大上段に構えるまでもない。回りを見渡せば,「能力主義」の名の下に過当な競争を強いられ,他者に,他社に,うち勝つことばかりに汲々としているのが今の世の中だ。そんな社会に嫌気がさしたら,人を蹴落としてまで「勝ち組」に入ることがそんなに価値のあることなの? と問いかけてみてはいかがだろうか。ただし,たとえそれで「負け組」のレッテルを貼られようとも,あるいは貧窮にあえぐことになろうとも,意に介してはいけない。それが老荘思想である。

(編集部 I)




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第1回 キェルケゴール   第2回 デカルト   第3回 ユング
第4回 ムンク   第5回 モンテーニュ   第6回 ダーウィン
第7回 ルソー  


   

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