ある人物をとりあげ,教科書では伝えきれなかったその人の魅力を探ります。
今回は?

第6回 ダーウィン

★1809〜1882。イギリスの博物学者。





  【教科書対応ページ】

 新課程版 新世界史A P.110
 旧課程版 新世界史A P.106




########## 神に異をとなえた男 ##########


 生物は進化する――今の多くの日本人はそのことを知っている。人間はサル(と同じ祖先)から進化した――これも今では常識となっている。この進化論を提唱した人物,それがダーウィンであることも,おそらくだれもが知っているだろう。

 ダーウィンが独自の進化論を発表してから,たかだか150年程度の年月しか経ってはいないが,この間,進化論の研究は飛躍的に発展してきた。しかし,生物の進化の謎はますます深まるばかりである。

 一方,聖書に縁のうすい日本人には信じがたいことかもしれないが,今でも進化論をまったく受け入れない人々が世界には多数存在する。現にアメリカでは,1987年に連邦最高裁判所が公立学校での「創造論教育」(旧約聖書の天地創造説に基づく教育)は違憲であるとの判決を下している。つまり,それほどアメリカでは創造論教育が盛んなのだ。そして,この最高裁の判決にもかかわらず,進化論を公教育から閉め出そうとする動きは今でもいっこうになくなる気配はない。

 また,ダーウィンの適者生存の考え方は,それを拡大解釈することによって弱者抹殺の恐るべき思想を正当化する根拠とされたことすらあった。

 ダーウィンの放った一石は,単なる科学上のテーマとしてばかりでなく,思想や政治を含めた人類の根幹にかかわる大テーマへとその波紋を広げたのである。

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 イギリスの博物学者ダーウィンが,『種と起源』によって独自の進化論を発表したのは,1859年のことであった。この『種と起源』は,近代におけるもっとも衝撃的な書物といわれている。いうまでもなく,キリスト教社会では,この世のあらゆるものは神が造ったものと堅く信じられていたからである。ダーウィンはこの中で,自然選択(自然淘汰)による進化論をとなえたが,人間の進化の問題にはほとんど触れてはいない(人間の進化にふれるのはそれから11年後,1871年の『人間の由来』まで待たねばならない)。それでも,『種の起源』が聖書の天地創造説を信じて疑わない人々に与えた衝撃は,十分すぎるものであった。



 ダーウィンは,1809年にイギリスの裕福なブルジョア階級の家に生まれた。父は医者であった。もちろんキリスト教徒の家庭である。それどころか,彼自身,聖職者を目指そうとしてケンブリッジ大学に進学している。そのケンブリッジで聖職者の余技として始めたのが博物学だった。

 ダーウィンは,大学を卒業すると同時に,英国海軍ビーグル号に博物学者として乗り込み,世界1周の航海に出る機会を得る。1831年に出発して以来,南米,南太平洋諸島やオーストラリアで様々な動植物を観察し,帰国したのが1836年。この5年間の体験が,のちの進化論の礎をつくったといわれる。

 帰国後も研究をすすめ,進化論の考えがほぼまとまったのは1844年ごろであったらしい。しかし,キリスト教社会でこの学説を発表するには相当な勇気を必要としたであろうことは容易に想像できる。ダーウィンは慎重であった。その後,さらに学説を強化する検討を加え,ようやく公表を決意したのが1858年ごろといわれている。

 ところがその矢先,とんでもない出来事がおこる。ダーウィンのもとにある学者から1編の論文が送られてきたのである。その論文をひもとき,読んでみて驚いた。なんと彼が今まさに発表しようとしている進化論とほぼ同様の内容がつづられているではないか。送り主の名はウォーレス。しがない学者ウォーレスは,ダーウィンとはまったく無関係に,独自に進化論を考え出し,それをダーウィンに読んでもらうために送ってきたのである。結局,ダーウィンは先の論文をそのまま発表することができず,ウォーレス論文を合わせた形で学説を発表した。

 このことが後に,「ダーウィンはウォーレスの論文を盗んだ」,「最初に自然選択の進化論をとなえたのはダーウィンではなくウォーレスである」等々,反ダーウィン陣営からの様々な憶測・誹謗・攻撃の材料に利用されることとなった。もっとも,ダーウィンがすでに1844年には進化論の骨格をまとめていたこと,ウォーレス自身がダーウィンに賛辞を送っていることなどから,現在は,これらのダーウィン批判には否定的な見解が多い。

 ともあれ,ダーウィンは翌1859年,歴史的な『種の起源』を出版する。

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 ところで,生物が進化するという考え方はダーウィンが創始者ではない。それ以前にも,19世紀に入ると何人かの学者が進化論をとなえている。もっとも有名なのはフランスのラマルクであろう。ラマルクの説は「用不用説」といわれるが,これとダーウィンの「自然選択説」との違いを説明するときによくもち出されるのが「キリンの首はなぜ長いのか」という命題である。学校で習ってご記憶の方も多いだろうが,簡単に紹介する。



 ラマルクが考えた説はこうである。「キリンの祖先は,木の葉を食べるとき,皆がとどかない高いところに豊富にある葉を食べようとして常に首を伸ばし続けた。その結果,首が次第に長くなっていった」。

 一方,ダーウィンが考えた説はこうである。「生物が子孫を残す際には変異が起こる。その変異のうち,生存に適した変異が生き残り,結果的に高い木の葉を食べることのできる,より首の長いキリンが生き残った」。

 簡単に言ってしまえば,長いほうが便利だから長くなった,というのがラマルク説,長い首のキリンが生存競争に生き残ったからキリンの首は長い,というのがダーウィン説である。それぞれ,なるほどと思う反面,疑問もわく。この両説に対して呈せられた疑問点の代表格は次のふたつであろう。

 まずひとつは,そのように進化したのだとしたら,首の短いキリン(の祖先)と今のキリンとの中間点に位置する中くらいの首の長さのキリンがいたはずなのに,そんな化石は見つかったことがないじゃないか,ということ。

 次に,たとえ意志であれ自然淘汰であれ,首が長いほうが有利なのだったら,木の葉を食べるすべての草食動物の首が長くなってるはずじゃないか,というのがふたつめである。

 これらの疑問には,それぞれの説を信じる人々が様々な理由づけを試みたが,どちらも決定的な説得力をもつにはいたらなかった。

 この時期,まだ遺伝子は発見されていない。しかし,実はメンデルが重要な研究をおこなっていた。エンドウ豆による遺伝の研究で,1865年にあの有名な「メンデルの法則」を発表しているのである。にもかかわらず,この法則はまったくと言っていいほど無視され,1900年に再評価されるまで,歴史のかなたに埋もれてしまったのである。

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 20世紀に入ってようやく遺伝子の研究が進み,さらにDNAが解明されるに従い,進化論は新たな段階へと進むことになる。

 20世紀の進化論の世界では,日本人の活躍が目立っている。たとえば,ダーウィンの自然選択説に真っ向から挑んだ今西錦司。彼は,生物は生存競争ではなく棲み分けをおこなっていると主張し,さらに種は変わるときには突然一斉に変わると考えた(だから中間的なキリンは存在しない)。ほかにも,突然変異はウィルスによっておこされると考えた中原英臣,適者が生存するのではなく運のいいものが生存するという「中立進化説」をとなえた木村資生など,多くのユニークな研究者を輩出している。

 今日の進化論は,もっぱらDNAの研究が中心となっている。ダーウィンの時代とは比較にならないほど生物の研究は進んでいる。にもかかわらず,驚くべきことに,「キリンの首はなぜ長いのか」という進化論始まって以来の命題に対する明確な答えはいまだに見いだされていない。それほど生命と進化の謎は深い。

(編集部 I)




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