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旧課程版 新倫理 P.97
モンテーニュ,パスカル,ラ=ロシュフーコーをしてモラリストの代表とされる。ところでモラリストとは,何を意味しているのだろうか。この言葉は,フランス文学で17世紀ころから使われ始めた。現実の人間,社会を観察し,人間性や風俗・習慣に様々な視点から考察を加え,これらを鋭利で圧縮した文章でまとめあげていく作家たちを称して,モラリストと呼ぶようになった。現代のフランス文学でモラルの文学者というと,結局はモンテーニュが言った「ク・セ・ジュ」(私は何を知っているであろうか)という懐疑から始まり,自己追求を続けていく作家たちのことをさす。モンテーニュはモラリストの始祖であるが,今日ではカミュ,ジッド,バレリーなどもモラリスト,あるいはモラリスト的作家とよばれる。
ミシェル=エーケム=モンテーニュは1533年に南西フランスのペリゴール地方のモンテーニュの城館に生まれた。彼がこれから遭遇するであろう事件を列挙してみると,1544年にフランス-ドイツ両君主間でイタリア戦争がおきる,1541年カルヴィンが宗教改革を開始,1551年新教禁止令の発布,1562年ユグノー戦争勃発,1571年聖バーソロミューの虐殺,1598年ナント勅令発布により信教の自由が認められる,ということになる。モンテーニュが生きた時代というのはヨーロッパの覇権をめざす神聖ローマ帝国(ドイツ)とフランス王国の戦争がおこり,フランス国内においては新教と旧教が対立した内乱の時代であった。
モンテーニュの曾祖父はボルドーの商人から身をおこし,貿易により巨利を得モンテーニュの領地を買い取り,ブルジョワジーの地位を得るとともに,子弟に対してはさらに貴族の道を歩ませるべく努力を続けた。そして,モンテーニュの父の時代にはすでに貴族として認められ,イタリア戦争にも従軍している。したがって,モンテーニュは,生まれながらにして貴族の子弟として育てられている。しかし,その教育が徹底しすぎたために,モンテーニュの知性の発育と社会性とのあいだに,アンバランスな状況がうまれた。発端は,モンテーニュがラテン語で日常会話をするよう強制されたことによる。ラテン語は当時のヨーロッパでは公用語であり,政治・外交・学芸の世界で使用され,知識の共有化に大きな役割をはたした。しかし,この言語はあくまでも知識階級において使われ,一般市民はヨーロッパの各国語や各地の方言を日常的に利用していた。成長し,モンテーニュの領地からでてボルドーの学校に寄宿した段階で,彼は言葉が通じないため,自己と他者のあいだに溝を深く感じることとなる。モンテーニュは後年「見るべきものは見ていた」と語っているが,周囲からは,意思がなく,ただ,ボーッとした少年と見られていた。
それでも,貴族の道は着実に歩み,24歳でボルドー高等法院に勤務,1570年37歳で引退を決意し,自宅の塔に読書室を設け思索と執筆の生活を始めた。しかし,1581年ボルドー市長に擁立され,内乱とペスト対策に翻弄される。この経歴から,モンテーニュという人物を書斎の人とするのはあまり正確ではないことがわかる。また宗教的にもカソリックとするのも同様である。なぜなら,自らは旧教徒として宣誓をしているが,モンテーニュの死後皇位につき,ナント勅令を発布し,新教の自由を保障したアンリ4世とも深い親交を結び,信頼をえていたからである。どちらかに偏ることがない,調停者としてのバランス感覚が,彼の本領である。これは『随想録』のなかの以下の文章によってもわかる。
「個人の場合でも公の場合でも,もっとも間違った意見を生み出しているもとは,自分が自分について抱くところのもっともよすぎる意見であるであるように思われる。」
「私は自分を平凡な人間だと思っている。ただそう思っていることだけだけが,人とちがうところである。私はもっとも低級で平凡な欠点をもっているが,私はそれを隠しもしなければ申し訳もしない。私はただ自分の価値を知っていることだけを,自分の値打ちだと思っている」
これらの述懐は,内乱の調停者として経験した社会のありようと自己とを客観的に述べた言葉と考えられる。ラテン語の習得により,モンテーニュは博学なギリシャ・ローマの古典の知識を基本にしながら,その思索は,つねに現実の混沌と自我との往復のなかで生まれているのだ。
また,モンテーニュが社会をどのように見ていたのかを表す文章を紹介する。
「本当の怠け者には勉強が,酒飲みにとっては禁酒が,贅沢者には粗食が苛責であり,ひよわでものぐさな男には労働が拷問である。これは他の何事についても同じことである。物事はそれ自体,そんなに苦痛でも困難でもないので,むしろ我々の弱さや意気地のなさが,万事そのようにしてしまうのである。高尚偉大な物事を判断するには,同じく高尚偉大な心がいる。そうでないと,我々はこれに我々の不徳をなすりつけてしまう。まっすぐな櫂も水のなかでは曲がって見える。ただ物をみるだけではいけない。どういうふうにそれを見るかが肝心である。」
これらの文章を読むと,いかに高い理想や制度があってもそれらを解する人間によって,いかにも卑俗なものになりうるし,よりよく活用できることもできるわけで,すべては人間の資質によって,良くもなるし悪くもなるという人間中心主義(ヒューマニズム)の視点がある。まだ,絶対主義王政下の官僚主義という制度はできておらず,議会制度が整備されるフランス革命は200年近く先である。宗教戦争のなかで,人間の価値観や社会の秩序が揺らぐ時代に,モンテーニュは,人間中心主義という考え方を提示した。それは,様々な制度が作られたり,破棄されたりする際の良心的な判断基準を今日に伝えているのである。
モンテーニュは,内乱やペストの流行により,多くの人々の死をみてきた。そして自らも政治の世界で一歩踏み間違えれば,死に至る状況に身をおいていた。さらに持病の腎臓結石は常に彼につきまとっていたので,死を念頭にいれながら,執筆を続けた。そして『随想録』の「はしがき」にこう書いている。
「私はただ,自分の親類のものや友人たちの楽しみ慰めのために,これを書いたのです。つまり彼らが私を失ったら(やがて彼らはそういう目にあわなければならないのです),この本を見て私の気分・気質のいくらかの特徴が容易に思い出せるように,いやこの本を読むことによって,彼らが従来私について思い抱いていた知識をいっそう完全な,いっそう生きたものにしてくれるようにと,ただそう思って書いたのです。」
モンテーニュの屋敷の読書室で続けられた思索は,今日でも多くの示唆を与え続け,社会のなかで,人間の判断基準として生きていることは,『随想録』が各国語に翻訳され,いまなお読まれていることで証明されている。
(編集部 M )