
【教科書対応ページ】
旧課程版 新倫理 P.25
ムンクは日本人にとってかなり特異な画家だ。なぜなら,まずだれもが知っている。にもかかわらず,(愛好家を除けば)知っている絵はただ1点,「叫び」のみである。さらに……,どういうわけか「倫理」の教科書に載っている!
日本人になじみの深い画家は他にも数多く存在する。たとえば,ゴッホ。
ゴッホの絵のタイトルをひとつ挙げよと言われたら,あなたは何を挙げるだろうか。タイトルでなく,思い浮かべることのできる絵,でもよい。100人に聞いて100人がすべて一致することはまず考えられないだろう。ところがムンクの場合は,100人中100人と断言してもいいくらい,「叫び」というタイトルを挙げ,その絵を思い浮かべることだろう。そう考えれば,いかにムンクが特異な画家であるかがわかるはずだ。
なぜそんなにも,ムンクの「叫び」は私たちの心に焼き付いているのだろうか。

「叫び」は,何とも不思議な絵である。まず,上部およそ3分の1を占める真っ赤な空(雲)。その下に広がる青い水,その一部は上空の雲を反射して黄色く輝いている。そこに小さな船が2隻。その手前に斜めに伸びる橋の欄干。手前に目と口を大きく見開き,両手を頬にあてて身をよじっている人物。橋の奥には黒い2つの人影。画面全体が渦を巻いたようにゆがみ,中央の人物も陽炎のようにゆらゆらとゆれているかのようだ。細部を極端に省略した抽象的な絵でありながら,強烈なインパクトをもって見る者に迫ってくる。一度見たら二度と忘れられなくなる絵である。
では,なぜこの絵が「倫理」の教科書に登場するのだろうか。教科書(桐原書店『新倫理』)の解説を引用してみよう。
「この絵には,現代人がいだく不安が端的に象徴されているといわれている。では,現代人の不安とは,どのようなものだろうか。それは何か具体的なヒト・モノに対する恐怖,たとえば敵とか戦争とかに対するおそれとは異なり,自分の存在の根底にかかわる不安である。具体的な対象に対する恐怖なら,それをやりすごせば消えるだろうが,とらえどころのない不安は不気味に現代人をむしばんでいるともいえる」
つまり,この絵は風景や人物など見えるものを描いているのではなく,本来見えるはずのない人間の内面を描こうとしているのだ。その点で文学や哲学に相通じるものがある。だから「倫理」で取り上げているのだ。
このムンクの「不安」を考えるとき,よく指摘されるのが,彼の育った家庭環境である。
ムンクの家系は,ノルウェーでもきわだって優れた人物を輩出している家系であった。父は軍医で,ムンクが生まれたのが1863年。その後,数年間は,裕福ではなかったが,ほかの4人の兄弟(ムンクは上から2番目)とともに幸せな生活を送っていた。ところが,ムンクが5歳のときに母が結核で死去,もともと神経質だった父は,これ以後いっそう沈み込んだ性格になってしまったという。さらにその9年後には,姉が母と同じ結核でこの世を去る。この姉の死は,やはり病弱だった14歳の少年ムンクにはかり知れない不安を植え付けたといわれている。
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1989年,父が死去。すでに「印象主義とレアリズム」の画家として一定の評価を得ていたムンクは,この直後「もうこれからは,室内画や,本を読んでいる人物,また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき,感じ,苦しみ,愛する,生き生きとした人間を描くのだ(稲富正彦訳)」と日記の中で宣言している。ムンク生涯のテーマ「生と死と愛」が明確に打ち出された瞬間である。
ムンクにとって「生と死と愛」は,不安と苦痛の源であった。それはたとえば,「愛(または女性)」をテーマとしたムンクの絵が,常に,「喜び」よりも「痛み」を伴っていることからも理解できる。「生と死と愛」は渾然一体となって,とらえどころのない救いがたい不安をムンクの中に呼び起こしていたと考えられる。そしてその不安は,現代人に蔓延しつつある普遍的な不安に通じるものでもあった。だからこそ,その不安をキャンバスの上にえぐり出して見せた一枚の絵に,私たちは共感するのだろう。
――余談だが,そんな中で,「叫び」と同じ年(1893年)に描かれた肖像画「ダーグニィ・ユール・プシビシェフスカ」は異色である。ここに描かれたダーグニィ(女性の名)のもの悲しげに男を魅了する美しさは,「痛み」を超越して,比類がない。機会があったらぜひご覧いただきたい。
話を「叫び」に戻そう。あの空の雲についてムンクは「雲を本物の血のように描いた」と語っている。ムンクが長い間結核の影に脅かされていたことを考えると,血といえば喀血が想起される。あれはその赤なのだろうか。ムンクはその後でこう続けている。「色彩が叫び声をあげた……」
ところで,私は長い間,中央の電球のような顔の人物は,両手を口にあてて自ら叫んでいるのだと思いこんでいた。ところが,あるときひとりの友人が,いやあれは耳をふさいでいるんだ,と主張して論争になったことがある。そのとき私は,頑として自説を曲げなかったが,ムンクのことばを借りれば,友人の説もあながち間違いとはいえない……どころか,むしろその方が正しいのかもしれない,とも思えてくる。自分の周りに満ちあふれた「叫び」が自分に襲いかかる,その不安から逃れたくて耳をふさいでひとりたたずみ,恐れおののき……。
でもやっぱり,私にはこの人物が叫んでいるように見えるんだなあ。あいだをとって(?),周囲に満ちあふれた「叫び」に共鳴して一緒に叫んでいる人物……,というのはちょっと無理があるだろうか。
さて,あなたはどう思いますか。
(編集部 I )