ある人物をとりあげ,教科書では伝えきれなかったその人の魅力を探ります。
今回は?
第2回 デカルト

★1596-1650,フランス。「近代哲学の祖」と呼ばれる。





  【教科書対応ページ】

『新世界史A(旧課程版)』 P.78 *来年度から使用開始の新課程版でもとりあげています。
『新倫理(旧課程版)』 P.109



########## みずから切り開いた人生 ##########


 ルネ=デカルトは世界史や倫理の教科書で,イギリスで帰納法を唱えたフランシス=ベーコンと対比され,演繹法を考案し,大陸の合理論の祖となったと紹介されている。
 いわゆる哲学者としてのデカルトの主著は『省察』であるのだが,今日一般に読まれているのは,「我思う,故に我あり」というフレーズが掲載されている『方法序説』である。この本は哲学書というよりも自伝という色彩が濃い。フランスの詩人ポール=バレリーが絶賛し,エゴチズムの問題ではスタンダールと対比され,文学書として読まれることが多い。
 また,フランス語の初習の学生たちは,文章が平易で明快なため,『方法序説』を原書で読むように教師に薦められる。

 このようにデカルトは,哲学や文学の世界から今日評価されているわけだが,デカルト自身は,いわゆるかしこまった哲学や叙情性のある文学とは遠い人間であった。
 彼は,大学は法学部に在籍しているが,数学の世界に興味を持つ。そして,志願将校として軍役につき,退役してからは,イタリアなど各地を旅行し,40を過ぎてから処女作である『方法序説』を刊行している。
 いわゆる,書物に埋もれた学究の徒ではなく,現実社会をさまよいながら生き抜いた人間なのである。

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 デカルトは,1596年にフランスのトゥレーヌ州に生まれる。祖父は医者で,父ジョアシアはブルターニュ高等法院評定官,母ジェンヌはデカルトが生まれた翌年,5人目の子供の出産後,死亡している。デカルトは,母は自分の誕生後,数日で亡くなったと思っていたようだ。彼は母方の祖母によって,育てられている。
 このころの貴族の称号は金で買われることが多い。蓄財し,称号と領地を手に入れた,いわゆる成り上がりの人々の子どもには2つの道が用意されている。帯剣貴族として大貴族の従者となり,出世していくか,法曹界で職を得て生きていくかである。
 デカルトの場合,ジェスイット教団が経営する名門ラ・フレーシュ校に1604年8歳で入学した。この学校で文法クラス3年,人文クラス2年,修辞クラス1年,哲学クラス1年を履修した。学科としては,古典語・寓話・歴史・雄弁術・詩・数学・哲学・法律・医学を修得している。

 のちにこのとき学んだ歴史・哲学については手厳しい批判を加えている。
 歴史については「過去の世紀の出来事にあまりにも興味を持ちすぎると,現代の出来事にきわめて無知になってしまう」と断じ,哲学については「なにごとにつけてもまことしやかに語って,浅学の者から嘆賞をうける術を授けてくれる」と皮肉るとともに,「数世紀このかたもっとも優れた人たちによって開拓されてきたものにもかかわらず,論争の余地のない,したがって疑わしくないものはまだひとつとしてない」と書いている。
 彼がもっともひかれた学科は,数学であった。
 「数学は推論が確実で明白だから,ぼくにはとりわけ気に入っていた。だがその本当の使い方をぼくはまだ気づいていなかったし,築城術などにしか役立っていないように思えたので,土台がこんなにしっかりとして堅固なのに,その上にもっと程度の高いものが何ひとつ建てられていないことに,ぼくは驚いている」

 この時代の彼は,ルネッサンス期のヒューマニズムをかすかに軽蔑し,スコラ哲学には猛烈な反発心を抱き,数学を中心とする自然科学に何よりも期待をよせていたのである。
 しかしながら,彼は自然科学の道にまっすぐには進めない。

 1614年ラ・フレーシュ学院卒業後,1616年ポアチエ大学で法学士の資格を得ている。やはり貴族の子として社会的地位をえるには帯剣貴族となるか,法曹界に進むしか道はなかったのである。
 しかしながら,彼はすでに敷かれていた道と決別する。デカルトは書物のなかから知識をえようとはせず,社会という荒波のなかに飛び込むことによって,自らを鍛えることを決心するのである。同年,志願士官の資格でオランダに渡り戦場に身をおく。この間ブレダという数学者と邂逅している。その後も軍務につきながらデンマーク,ドイツを渡り歩き,さまざまな経験をつんでゆく。そして,彼が世界という偉大な書物から学び,その結果を世に公表しようとしたのは1633年,すでに37歳になっていた。
 本のタイトルは『宇宙論』で,それまで積み上げてきた,自然科学の知識を集約したものであったが,この年,ローマ法王庁は地動説を唱えたガリレオを有罪としたというニュースが飛び込み,出版を断念する。この書物は3年後に出版された『方法序説』とほぼ同じ内容のものといわれている。
『方法序説』には以下の記述がある。
 「教師から教えられる年代を過ぎると,僕は本を読んで学ぶことをすっかりやめた。そして自分自身や,世界という膨大な書物のなかからしか見つけることのできない知識を追求しようと決心した。僕の残りの青春を宮廷や軍隊を知り,さまざまな性格や条件をもった人々と交流し,多くの経験を積み,それらの出会いを自ら幸福であると思い,自分が本当に利用することができると思えるものについて考察することに費やそうと決心した。」

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 デカルトは,迷信や宗教によってゆがめられた社会観を認めない。すべては実証学的に証明されるものが,真実であると考える。
 デカルトは「光について」という論文を書いているが,このなかで,眼球の図を掲載し,光がどのように眼球のなかで屈折して,人間の視界として認識されているのかを解説している。これは,今日ではあたりまえのことなのだが,当時は,目は左右で違うものを見ていると考えられていた。片方は理性を片方は感情をという具合である。
 このような時代に,解剖により目の構造を明らかにし,数理的に光の屈折角度を解明した成果とは何だったのだろうか。デカルトは,数学を中心にした自然科学を基本にし,物事を判断する基準をつくりあげ,政治や宗教や迷信から離れ,純粋に物事の組成を明らかにする方法を提示したのである。
 彼の業績が,その後の近代社会に残した影響は,はかりしれない。万人が基礎的な知識をもって参加できるのが,近代社会であり,その基礎知識は誰からも疑いのないものでなければならない。したがって,デカルトは,近代社会の人々がもつ共通の知識を見出す方法を提示したといえるだろう。

   「我思う,故に我あり」という言葉は,これだけとると唯我独尊ともとられかねないが,自らの判断,思考を疑えるだけ疑ったうえでの結論なのである。これは,研究対象のみならず,自己に対しても厳しい客観性をもちながら生きたデカルトの本質を表しており,このような姿勢をつらぬいて生きたデカルトは,ユーモラスなエピソードを多く残しているが,精神的に全くの孤独のなかにあったと考えられている。

(編集部 M )





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