歴史探訪

 今月から、毎回読み切りで 歴史上の人物や事件を取り上げ、斬新な切り口で歴史の真実に迫る「歴史探訪」がスタートいたします。学界の最新動向にも触れながら、時には学界未発表の新説も飛び出します。歴史の醍醐味を少しでも堪能していただければ幸いです。

 第1回は、数々の伝説をもつ「平将門」を取り上げます。

「平将門――新皇即位記事を追う――」

 10世紀半ば、東国で起こった平将門の乱を描き、軍記文学の先駆的作品として知られるのが『将門記』である。その中でもっとも多く取り上げられるのが、将門が「新皇」に即位する場面である。将門が実際に「新皇」を称したかどうかは、将門もしくは将門の乱の評価と深く関わってくるからである。とりあえず、その場面をみてみよう。

 「939(天慶2)年12月、将門は下野(しもつけ、今の栃木県にあたる)に続いて上野(こうずけ、今の群馬県にあたる)の国府を襲撃し、もっとも大切な国印と正倉のカギを奪って国司を追放した。その将門軍のもとに1人の巫女(みこ)が現れ、『自分は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者である』と口走り、『朕(ちん)の位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る』つまり『皇位を将門に授けよう』といい、『その位記(位を授けるという文書、辞令のようなもの)は、左大臣正二位菅原道真の霊魂が捧げる。音楽をもって迎えよ』といったため、将門や部下たちはおおいに喜んだ」 というのである。

 ここで注目したいのは、八幡大菩薩と菅原道真の霊魂とによって、将門の新皇即位を合理化しようとしている点である。この記事に関しては、今日、実際それに近い事実があったとする説と、『将門記』の作者による創作説とが対立している。

 まず、前者の事実説に従えば、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、903(延喜3)年に恨みをいだきながら没した道真の亡霊の祟りは宮廷人たちを恐怖のどん底にたたき落としたが、その怨霊譚はすみやかに民間に広まり、道真没後36年目の乱の時期にはすでに坂東(関東)地方にまで伝播しており、八幡神に対する信仰もまた坂東地方へ勢力を伸ばしていた、ということになる。

 一方、後者の作者創作説のうち、多くの支持を受けている見解は次のようなものである。将門の乱の当時、都の貴族たちの間では道真の怨霊が恐れられていた(この点では前者と同様である)。そして、志をとげずに無念の討死をとげた将門もまた、のちに怨霊として恐れられ、祭られるようになる。それらの事実を知る後世の作者が、道真と将門という2大怨霊を結びつけ、前述の『将門記』の記事を創作した可能性が強い、というものである。

 いま両説の当否について言及することは差し控え、ここでは平安末期に語られていた別の新皇即位記事に注目してみたい。興味深いことに、そこには道真の霊魂は登場してこないのである。

 1180(治承4)年8月、源頼朝挙兵の報が京都にもたらされると、貴族たちは同じ東国における反乱ということから、ただちにかつて(240年ほど前)の将門の乱を想い起こし、将門をめぐるさまざまなエピソードを語るようになった。九条兼実の日記『玉葉』には、兼実邸を訪れた清原頼業(よりなり)という人物が語った話として、次のような内容の記述がある。

 「昔、将門謀反の折り、八幡大菩薩の使者として青い眼の壮士が天より降り、将門に朕の位(皇位)を授けたそうだ。また、尊意僧正なる高僧は、帝者の運を有する将門を調伏する法を修したため、将門討死の後、5日を経て死んでしまったそうだ」

 この『玉葉』の前半部分の記事と『将門記』を比べると、八幡大菩薩の使者も男と女で異なるし、また道真の名もみえないのである。これをいったいどのように理解すべきであろうか。

 幸い、後半部の将門調伏の法を修した尊意僧正が死んでしまったという話が手がかりを提供してくれている。それというのも、将門敗死後、10数年を経た頃から11世紀半ばの間に東国で成立したと推定されている『僧妙達蘇生注記』という史料の中に、「悪法を修して将門を殺した尊意は、その罪の報いによって、長い間人身を得ることができず、1日に10度も将門と合戦をしなければならなかった。これに対して将門は、兜率天に生まれかわり、その西北にある金銀の瓦の家に住まわされている」とみえるからである。

 従来から、古典にみえたり、現在も各地に残っている将門伝説のうち、東国には将門の死に対する人々の鎮魂の情を示す内容の話が多いとされる。そうした将門びいきの話を代表するこの『蘇生注記』の話と、先の『玉葉』の記事の間には、確かに相当な差異もあるが、尊意による将門調状を罪業とみなすという、もっとも基本的な部分では一致しているのである。

 とすれば、東国で生まれた『蘇生注記』の将門と尊意の話が、やがて京都に伝えられ、その影響を受けて書かれたのが『玉葉』所載の記事であったとの推定も成り立ちうるのではあるまいか。そう考えると、同じく『玉葉』の将門即位の話(前半部分)についてもまた、その源を東国に求めることができるのではあるまいか。

 すなわち、結論的にいって、八幡大菩薩の使者を巫女とする『将門記』の新皇即位記事は、『玉葉』にみられるような、八幡大菩薩の使者として天から降りてきた青い眼の壮士が将門に皇位を授けたとする東国の話を下敷きにして、それに道真霊魂をつけ加えた、『将門記』作者の創作であった可能性も考えられるということである。平安末期、後白河院によって撰集された『梁塵秘抄』には、「東(あづま)には女はなきか男巫(おとこみこ)、さればや神の男には憑(つ)く」といった歌謡が収められおり、これらは坂東地方には巫女より男巫が多いということを示しているが、このことも、そうした可能性を高めるものではあるまいか。

 しかし、もちろん以上のような推論は将門の新皇即位を否定するものではない。というより、私自身は『玉葉』の話に近い事実があったとみなすべきでは、とさえ考えている。将門が新皇に即位したかどうかは、いぜんとして謎のままである。

                       都立墨田川高校教諭 樋口州男

 次回は「崇徳上皇の怨霊」を予定しております。ご期待ください。




[ホーム] [政治] [経済] [社会] [環境] [教育] [歴史] [文化] [キーワード] [テーマ] [時事教養]


桐原書店

98年6月4日