時事教養

今月より、毎回読み切りで時事問題を取り上げ、様々な視点からそれらの問題を解説・論評します。第1回は、この数年混迷する政界再編を取り上げます。参院選を控えた今、これまでたどってきた政界再編の歩みを振り返ってみましょう。

「日本の政党政治の課題と展望 〜離合集散を繰り返す政界再編劇〜」

1.はじめに

 「自社さ連立崩壊」「社民,与党離脱」とマスメディアが報じている。連立政権といっても,第二次橋本内閣からは,社民党も新党さきがけも閣外協力という形になっていたので,「あ,まだ連立政権だったんだ」という感じの人もけっこういるようだ。

 1994年6月に自民党と新党さきがけ,そして「社会党」が連立政権を組織し,村山首相が誕生した時は,衝撃が全世界をかけめぐった。当時,社会党に裏切られた,と嘆く人もかなり見られたし,社会党ならそのくらいやるだろう,と思っていた人もけっこういた。もちろん,社会党に期待した人々も多数いた。結果論だが,「あの社会党」だから自民党と連立できたのだろうし,「この社民党」だから連立を解消せざるを得ないのだろう。

 4年間というのは短かったのか長かったのか? 社会党は社会民主党になり,新党さきがけから厚生大臣になった男が民主党の代表になっている。その「民主党」もここ数ヶ月間,政界の台風の目になっていた。今までの常識が一夜にして過去のものとなるのは,よくあることだとしても,とくにこの6年間の政党の移り変わりの激しさは尋常ではないだろう。ここでは,この数年の政党の移り変わりを確認しながら,日本の政党政治について考えてみたい。

2.55年体制とその崩壊

 1955年は日本の政党政治を語る上で,最も重要な年の一つであろう。戦後10年を経て保守系の政党と革新系の政党がそれぞれ試行錯誤の結果,自由民主党と社会党にまとまった年だからである。

 戦前、戦争協力・国家総動員の体制が組まれていく中で,非合法とされていた日本共産 党以外の政党は,大政翼賛会に合流していった。戦後,多くの政党が以前の名前とは別の名前で再出発を果たしているが,日本共産党のみは結党以来,非合法の時も合法化された後も同じ名称のままである。名称を変えるのは,その名称ではやっていけないような問題を抱えた場合であって,そのようなことはないのだから名称変更の必要はない,とのことらしい。とにかく,1945年から55年にかけて,保守系政党は乱立し、革新系政党も分裂していた。それが,1955年10月に日本社会党の右派と左派が合同した。これを受け,保守も合同して自由民主党が成立した。いわゆる55年体制の開始である。

 その後,1960年に民主社会党(のちの民社党)が日本社会党より分裂し,1962年に作られ た公明政治連盟は1964年に公明党を結成するなど,60年代にはいわゆる「中道」路線と称 される中間政党が登場してくる。70年代に入ってからは,自民党の内部にも金銭的な関係から強力な派閥が形成されるようになり,1976年には新自由クラブが分離した。また,1977年には社会党から社会市民連合が分離し,翌年社会民主連合に改組された。

 55年体制の特徴としては,政権政党としての自民党と,批判政党的な野党としての社会党が対立している構図があげられる。体制としての自民党とその補完物としての社会党。そして中間政党と共産党。国民の声はどこかに吸収されるが必ずしも反映されない,ということになる。アメリカやイギリスの二大政党制とは異なり,自民党一党による長期にわたる政権が現出した。もっとも,自民党の中は一枚岩ではなく,様々な潮流があり,人や金の結びつきを示す派閥なるものが機能しており,当時の政党政治は社会党の議席がのびず2大政党制ではなく,いわば「1.5大政党制」で,自民党の内部で様々な連立政権が作られてきたようなもの,と評する人もいる。

 1983年12月の総選挙で過半数を割った自民党政権は,新自由クラブとの連立政権を組織 して乗り切り,1986年にはこれを吸収した。この頃より,労働戦線の再編が進められ,米英の二大政党制を志向する政界再編への動きも進められていった。1989年の参議院選挙の結果,参議院で与野党が逆転し,1991年頃には政界再編論が盛んとなった。また,東西冷戦が終結したことによって,国内政治もイデオロギーの対立ではなく,金権腐敗政治への批判を中心に議論されるようになってきた。1992年に日本新党が結成されたことを契機として,自民党の分裂・新党ブームが起こる中で,55年体制は崩壊していった。

3.新党ブームと政界「再編」

 1993年6月に自民党から新党さきがけと新生党が分離し,総選挙ののち,非自民・非共産の8党派で連立内閣が日本新党の細川護煕を首班として成立した。細川連立政権は今までの自民党政権にはなかった新しさを模索していたようだが,逆に自民党政権でさえ手をつけられなかったようなことを手がけようとしていたようにも思える。1994年1月に衆議院の小選挙区比例代表並立制を中核とする「政治改革」という名の関連4法案が成立したが,細川首相は辞職した。4月に新生党の羽田内閣が発足したものの,社会党とさきがけは連立から離脱し,少数連立内閣は短命となった。

 そしてこの1994年6月,自民党と社会党,そして新党さきがけが社会党委員長村山富市を首班とする連立内閣を発足させた。村山首相は自衛隊容認など,社会党の「現実路線」を推し進めていった。一方,9月に新生党・公明党・民社党・日本新党などが,統一会派「改新」をつくり,さらに12月には新進党を結成した。

4.政界再再編?

 自民・社会・さきがけの3党による連立政権は,消費税を5%にする税制改革大綱を決定したり,被爆者援護法を成立させたりして,それぞれの主張を組み込んだ政策を実施していった。1996年には戦後50年の国会決議もおこなわれた。参議院選挙では,自民・社会が議席を減らし,新進党は倍増した。村山首相は,改造内閣を発足させつつ,8月に「過去の一時期,国策を誤った」との戦後50年談話を発表した。

 1996年1月に辞任した村山首相の後を受けたのが自民党の橋本総裁で,自社さ連立の橋本内閣が発足した。2月,民主・リベラル新党を追求していた社会党は党名を社会民主党に改称した。9月に菅直人・鳩山由紀夫らが基本理念を発表した「民主党」に,全体として移行することを断念した結果,社民党は分裂することとなった。

 10月の総選挙で自民は復調,社・さは大敗を喫して,第二次橋本内閣には閣外協力でのぞむこととなった。この間,自民党は入党者や復党者の積み上げで,4年3か月ぶりに衆議院での単独過半数を回復する。

一方,野党第一党のはずだった新進党は,1997年12月31日に解党した。1998年1月,新進党から分離したグループも含んだ,野党6党は統一会派「民友連」を結成したが,小沢一郎を中心とするグループは自由党を結成した。さらに民友連を中心に新「民主党」が結党された。

 そして文頭のように,社民党とさきがけが与党から離脱した中で,この7月に参議院選挙が予定されている。

5.総括

 永田町では,いまだに数の論理がまかり通っているとも言う。確かに議員の数は力にな るのかもしれない。だが,選挙の後に政党の組合せによる数合わせで政治が決まるというのも妙な話である。戦後55年体制と呼ばれる,場合によっては「1.5大政党制」のもとで続いてきた自民党長期政権から,「変化」を求める中で生まれた新党ブームだったのだろう。政策による連携と言いながらも,議員の数を合わせているだけではないか,との疑問を国民に抱かせているのも事実である。

 小選挙区制導入によって政策本位の選挙になる,というのは幻想だったことは立証できたような気もする。小選挙区選挙というのは死票の多くなる可能性の高い選挙制度であり,日本のように国民の要求が複雑になっていて,多数の政党がある状況では,国民の声をストレートに反映しにくい選挙制度・政治制度であることにちがいはない。二大政党制が定着している国にとっては小選挙区制の導入も理解できる。しかし,小選挙区制の導入によって二大政党制を実現しようという目的は本末転倒のような気がする。

 小選挙区制は,自民党政権の時にはとうとう実現できなかった。ところが,細川連立内 閣の時に小選挙区制が導入された。非自民であっても自民党と変わらない政治をおこなっている,と非難する考え方もある。その背景にあって,日本の行政を取り仕切る官僚制を問題にすべきかもしれない。

 二大政党制を求めて,自社さ連立政権に対抗する形で新進党が結成された。第三極を主張して民主党が結成されることによって,社会党・さきがけは分裂を余儀なくされた。新進党も昨年末分裂し,紆余曲折ののち自由党と新「民主党」とが成立した。そして,自社さ連立政権の崩壊。一時のブームや真新しさだけではなく,私たちが主権者として,どれだけ国民の声を反映する政党を選んでいくかが問われているのだろう。

                               神奈川県立高校教諭 小杉隆一

次回のテーマは「周辺事態法(政府案)をめぐる問題点」です。ご期待ください。


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桐原書店

98年6月4日