探求 論理国語 ダイジェスト版
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境界をこえて ― 自他・文学・人間見渡せば花も紅葉もなかりけり10浦の1苫と屋やの秋の夕暮れあらゆる芸術表現のうち、「見えぬものまで見せる」という方法は、文学においてのみ可能である。そうした文学の特性を、これほどあからさまに詠み込んだ歌はあるまい。なにしろ、どう見渡したところで風景の中には、花も紅葉も存在しない。しかし4万ば朶だの桜や紅葉の錦が、眼前にあるがごとく心に映る。その幻影によって、私たちは光と影のほかには色も形もないほどの、秋の夕暮れを体感するのである。中学だか高校だかの教科書で、この歌に巡り合ったことは私にとって幸いであった。それまで至極単純に、「文学とは言葉による写実である」としていた考えが覆った。まるで、閉じこもっていた蔵の扉が開かれて、輝かしい光がふいに射さし入ってきたような秋歌上3藤ふ原わ定さ家いらの1苫をふ屋い た茅ち粗な末どなで家屋。根2「新古今和歌集」 八番3藤原定家 一一六二~一二四一。4万朶 二〇五年成立。藤原定目の勅ち撰せ和歌集。一家・藤原家い隆た(一一五八~一二三七)らが撰進した。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」(一二三五鎌倉時代初期の代表的年成立)を撰進した、歌人。「ていか」ともいう。多くの花の枝。幻影至極写実まんん  じだえらついちう5さ うん5  えかんがやょく器としての「わたしたち」浅あ田だ次じ郎ろ境界をこえて「わたし」と境界百五十年前と今の日本人の暮らしは、まったく違います。しかも百五十年前の日本列島に暮らした人々は、もう誰一人残っていません。日本人は、みんな入れ替わっている。それでもなお日本人や日本文化はずっと続いている。そんな意識が私たちにはあります。学生に「日本文化とは何ですか?」と聞くと、みんな同じように答えます。着物や華道、茶道、相撲、歌舞伎、侍、わびさび……。でも、教室に着物を着ている人は一人もいません。ふんどしをつけている人も、歌舞伎役者も、ちょんまげ頭の人もいません。誰もその「日本文化」に当てはまらなくても、それらが日本見人のえ固ぬ有のも文化のだをと信見じるということて疑わない。不思議なことです。もともと武士階級の侍なんて、全人口から見ればごくわずかでしたし、庶民は絹の着物を身につけることが禁じられていました。極端な話、今も昔も一部にしか存在しなかった要素であっても、日本人の文化だと考えることは可能なのです。「日本人」というのは「器」であって、何がその「中身」として差異を構成するのかは境界をこえて松ま村む 圭け一い郎ろ文学と境界10143 見えぬものを見るということ「2新し古こ今き和歌集」巻四境界をこえて自己と他者、文学と映像、人間と未知なる存在。「境界」という共通のテーマのもと3本の評論を掲載しました。54136境界をこえて 〈Ⅰ部〉

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