探求 論理国語 ダイジェスト版
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3徴 4スプーンを曲げてみせても 証拠。前触れ。なでたり息を吹きか論文けをた読りむして金属製スプーンの首の部分を曲げるパフォーマンス。一九七○年代に世界的に流行した。*目の当たりにする不思議な現象で、宗教的真理の徴3と見なされるもの」と、辞書では説明されている。確かに、奇跡は単に「不思議な出来事」と言うにとどまらず、一種宗教的なニュアンスを帯びている。イエス・キリストをはじめ聖人、聖者と呼ばれる人が、手を触れただけで不治の病を癒やしてしまう場面が連想される。常識では起こるはずがなく神に祈るしかないような出来事が現実に起きるとき、人は「奇跡が起きた。」と言う。常識を超えて起きる出来事がそのまま奇跡なのではなく、その中でも祈りたいほど起きてほしい出来事が奇跡と呼ばれる。確かに、奇跡という言葉は悪い出来事には使われない。日常会話でも頻繁に使われるのは「奇跡的に助かった。」、「生きて帰れたのは奇跡だ。」などの表現である。「奇跡的に死んだ。」、「生きて帰れなかったのは奇跡だ。」とは言わない。(「運悪く死んだ。」、「不運にも生きて帰れなかった。」と言う。)奇跡的な出来事は悪い出来事ではありえないからだろう。これらの日常表現からは宗教的な響きは消えているが、なおそこには何か超越的な力によっ210て恩恵を受けた(「助けてもらった」)というニュアンスが生きている。誰も頼みもしないの 1に ス4プーン演 を習曲げてみせても、奇跡が起きたとは言わない。その意味で、奇跡的な・教科書210ページ出来事生とじるい理う由のを、は本、文何に即よしりてもまと常め識てやみよ法う則。に反してまで 「変起身しきたて主ほ人公し・李徴15の「奇怪に没落した我が身の煩いこと」が現実に起きる 2、 身そ」とう中い島う敦の出「来山事月で記」あ、そるし。て東野圭吾の「変身」論文を読む変身に立ち会う人の情動と、そのような心情の動きが変身に対する「恐れ」のイメージは、カフカの「変において、それぞれどのような点から喚起されていると筆者は述べているか、説明してみよう。「山月記」を読んでみよう悶」(二〇六・5)とは、どのよ喝う采な も頻の繁だろうか。実際に「山月記」を読んで考えてみよう。15203 変身に伴う快楽と恐れ ――「山月記」を通じて論文を読む①変身には恐怖や不安がつきものだが、そこには悦びや快楽も伴う―「山月記」などの作品を例に、「変身」の意味を考える評論です。4510

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