探求 論理国語 ダイジェスト版
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じついあんり5 たのはわしらの孫、辰夫の息子なのだった。説明すると、婆さんは少しも驚いた顔をせず、そうそう、そうで「わし」は、現実世界と記憶の世界の行き来を通じて、婆さんとともにした生きている―小説の読解を踏まえ、評論「いのちは誰のものか?」のね、「ともに生きる」というテーマの内容理解を深めることが可能です。と言って微笑する。まるで、そんなのどちらでも同じことだというように。すると、白いごはんをゆっくりゆっくりかんでいる婆さんの、伏せたまつ毛を三十年も四十年もの時間が滑っていくのが見えるのだ。「どうしたんです、ぼんやりして。」「おつゆが冷めますよ。」にやわらかい。麩のようにやわらかくて、玉子焼きのようにやさしい味がした。鰺が好物の辰夫はわしらの息子で、この春試験に失敗しごはんから顔を上げて婆さんが言う。わしはうなずいてお椀わをすすった。小さな1手て鞠ま麩ぶが、唇昔、婆さんも手鞠麩のようにやわらかい娘だった。手鞠うふふ、と恥ずかしそうに婆さんが笑うので、わしは心江え國くに香か織おり小説 晴れた空の下で 〈知〉の深化 ▼鷲田清一「いのちは誰のものか?」(二五ページ)の〔参考〕としてわしらは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。入れ歯のせいではない。食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。例えばこうして婆ばさんが玉子焼きを作る。わしはそれを食べて、昔よく花見に行ったことを思い出す。そういえば今年はうちの桜がまだ咲いとらんな、と思いながら庭を見ると、婆さんはかすかにほほ笑んで、あの木はとっくに切ったじゃないですか、と言う。二十年も前に、毛虫がついて難儀して、お爺じさんご自分でお切りになったじゃないですか。「そうだったかな。」わしはぽっくりと黄色い玉子焼きをもう一つ口に入れ、そうだったかもしらん、と思う。そして、ふと箸を置いた瞬間に、その二十年間をもう一度生きてしまったりする。婆さんは婆さんで、例えば今も鰺あをつつきながら、辰た夫おは来年こそ無事大学に入れるといいですね、などと言う。「違うよ。そりゃ辰夫じゃない。」評論Ⅰ15151030評論×小説 〈知〉の深化①

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