探求 論理国語 ダイジェスト版
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〈知〉のコミュニティへ村むら田た沙さ耶や香か気持ちよさという罪子どもの頃、大人が「個性」という言葉を安易に使うのが大嫌いだった。確か中学生くらいの頃、急に学校の先生がいっせいに「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。全校集会では「個性を大事にしよう。」と若い男の先生が大きな声で演説した。「ちょうどいい、大人が喜ぶくらいの」個性的な絵や作文が褒められたり、評価されたりするようになった。「さあ、怖がらないで、みんなももっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今までどおり静かに排除されていた。当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、すてきな特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。私は(多くの思春期の子どもがそうであるように)たやすくその言葉を使い、一方で本当の異物はあっさ58私は受容に見せかけたラベリングのことを、多様性と勘違いしていた―他者を受け入れる難しさと重みを問う村田沙耶香さんの文章を、冒頭に採録しました。1010

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